2021/12/29

1794.




今日で仕事納めである。来年の準備。やはり、と思う。
自分ができることを見つけてやる、何か言われるより先に完了させておく、誰もいないときになんでもやっておく、やはりそういうことに愉快な喜びを覚える。そういうことを許してくれる職場環境も、それを自然と褒めて下さる人たちも、大好きだ。

どんな大変な仕事でも、どこかに楽しみを見出せる、誰かが楽しみを知っている。
ぼくはぼく自身と仕事仲間のために働きたいと思う。(それが全体として「お客さま」に届けばいい。労働者にとって、それは理念に過ぎないのだから。)

やはり、労働における自発性は貴重な活力源なのだ。

2021/12/15

1793.


虚しさ、そのなかでも強力な虚しさに襲われることがある。身体全体に眠気が襲ってくるみたいにどうすることもできないような虚しさ。

この虚しさは歳を重ねていけばいくほど、わたしの心に訴えかけるようにして染み込む。そもそも、わたしは歳を重ねれば重ねるほど、この無邪気な訴えがゆっくりと鎮められるか、そうでなくともより上手く付き合えるのではないかと常々思ってきた。それは別の見方をすれば、自信の表われ、自己肯定感の高まりと内省の充実を示すものであるかも知れない。確かにわたしは生を肯定する、生の肯定まで考え抜いた、人生を肯定的に捉える根拠を見つけたのだ。虚しさは生を肯定するわたしの前に姿を表すことはもはやないだろう。が、そうではなかった。それは段々と大きくなって、強くなって現れる。いまやわたしにとってそれは底知れぬものとなった。底知れぬ虚しさである。いったい、この虚しさの湧き起こる余地がどこにあるだろうか。わからない。
それはわたし、あるいはわたしたちの思いもよらない、全く別のところから湧き上がっているのかも知れない、そんな得体の知れない気配を感じる。対照的に充実した日々、考えることの、知ることの楽しさ、美しいものに触れる喜びたちがわたしを満たしていく日々、周りの人たちのおかげで快適な生活、それらは明らかに自分自身の内発的な感情である。わたしはあるとき「また赤児として生まれるならば」と考えたことがある。わたしは今でも思う、また自分がいい、また何度だって自分自身のように生きたいと。
それなのに、それなのにこの虚しさは。いったい、どこから来るのだろう。消えてしまいたいという抗い難いほど強い気持ち、自分とも、何者とも関わりたくないという抗い難いほど強い気持ち。もう一切の関わりを連絡を断ちたいと思ってしまう。もうそのように決断してしまう気持ちのはやり。


昨夜、わたしはこの底知れぬ虚しさに襲われ、その只中にいた。この強力なものの根源がわたしのなかのどこにあるのだろうか。これと付き合っていくには、わたしの心は脆弱が過ぎやしないだろうか。もしそれがわたしにとっての試練であるならば、ひどく不条理であるとさえ思う。いや、単なる眠気のようなものだと認めて過ごせばいい、そう思う自分も今はいる。本当に、そうできればいいのだけれど。世の中には、なにか救いがあると期待すると抜け出せなくなる穴のようなものがあるから。

2021/11/28

1792.

昨日をもって山形県のとある宿泊施設でのお仕事を終える。わたしの不手際で心配をかけてしまった初日から昨日の終業まで、穏やかにわたしに接してくれたオーナーと仕事仲間。旅の疲れを癒す笑顔とはまさにこのこと。わたしはみんなのやさしい笑顔とただただ眠たげな表情しか見たことがない。どこにも緊張はない、いつもゆるやかな時間が暖炉の煙と共に流れるのが見える。こういう時間があるのだなとわたしはひっそり感じた。こういう時間があっていいのだなと、ちょうど神さまが世界にちいさな島をぽつんとひとつ浮かばせるみたいに、わたしは自分の世界にちいさな灯りを与えることができたのだった。

人に恵まれたとまた思う。仕事柄、いろいろな人に出会うけれど、いっしょに仕事をする人たちと過ごす時間がなにより大切だと感じていた。それは、ゲストより仕事仲間といる時間のほうが長い、そして仕事についてわたしは、職場の人間関係にいちばん価値を感じている。だから、彼ら、彼女らと過ごす時間は大切だ。

わたしは人見知りで無闇に気を遣う人間であるから気疲れしやすい。だから本当は対人を強く要求される仕事は向かないと思っていた。でも、今まで携わってきたサービス業や教育のお仕事のうち、嫌だと思って辞めたものはない。それはすべて仕事仲間のおかげだと思っている。みなさん、本当によく接して下さって有難いです。

わたしはよく可愛がられるけれど、歳をかさねていけばそうは言ってられなくなる。いまのうちに、可愛がってくださる人がいるうちに、わたしは自分なりに成長していけたらなと思う。自立心を遥かに高く掲げたいとさえ思う。


お別れの日、オーナーに一日のまかない代をもらった。本当に人が良すぎると思う、この方は。なんだか、涙が出る。わたしが「行って参ります」と言うと「行ってらっしゃい」と返ってくる。ささやかな挨拶のなかにも豊かなことばがある。わたしの心は遠く春まで駆けていく。オーナーに早く告げたくて。早く知ってほしくて。かならず、帰ってきますって。その気持ちでいっぱいです。



2021/11/03

1791.

今月、今後の人生を左右する大きな選択に迫られる。
不思議と去年もそうだった。自分の将来のため、それとも自分のいまの感情のために。わたしは前者を選んだ。自分のことであれば判断も少しは容易くなるが、相手のことがさらに加わると、雑多な憶測ばかりがふくらんで進退きわまる思いする。それでも自分自身を前提に位置づけることによって考えやすくなった。それがわたしなりの自愛だと思って。

自分の選択を後悔しない。去年もそうだった。後悔しないように自分の判断を正当化する、その根拠を明らかに並べることで、後悔どころかわたしは光の差す方角に目を向けられる。

ことばも判断も曖昧に過ごすのは、豚の角煮を食べるときのように頭痛を伴う、受容れることはできても、わたしには合わない。

2021/10/31

1790.

心と脳というふたつのことばがあり、それらをどちらかに還元する試みは結局のところ物理主義の立場を採らざるを得ない。それは脳という物理基盤なくしては心はありえないからである。
しかし、心と脳はそれぞれ別けて分析しなければいけない。なぜならそれらは異なる次元の概念だから。

心と脳ということばは同じものを表しているとか心は脳の働きに過ぎないといった判断は心という私秘の内なる現象と脳という外的現象を同じ次元での現象と見なすことに由来する。

2021/10/30

1789.

働きたい、愛したい、愛されたい、絵を描きたい、音楽をつくりたい、ことばを綴りたい。自己に由来する欲求はすべて思索と判断という営みのうえになければ、わたし自身を満たすことはできない。

2021/10/28

1788.

こういう人間なんだ、なんて言われるとそうなんだと思ってしまうけれど、その人の事実になるべく目を向ける。
よくわからないと呼ばれる人は実は単純なんだと思う。その外殻が粗いことばと感情の糸でいびつに絡まり合っている。本意はその殻のうちがわでひっそりひとり悶えていたり、うつくしく眠っていたりするのかなって。

2021/10/24

1787.


昨日の土曜日で終業した。沖縄でいっしょにお仕事をしていた方に紹介してもらった知床漁村のお仕事。以前に帯広で牧畜のお仕事をしていたころにとてもつらい思いをしたから北海道のお仕事は今回も不安だった。でもその不安はお仕事するうちに早々と消えていった。それどころか少しずつ、本当に少しずつ楽しさを抱いて魚に触れている自分がいた。それは明らかに周りの人たちのおかげだと思う。手ぼっこのぼくをどうかしてよく接してくれたのだから。それよりも、なにがあってもいつも笑い声の絶えない暖かな雰囲気が北海道の端っこで吹く寒風や岸壁にぶつかる波のはげしさと対比されて際立って素敵だった。そういう何気ない人々の交流の時間がこの上なく貴重に感じられて、来てよかったと思えた。

本当に来てよかったと思う、できればまた来年も。そしてこの知床で冬を過ごせたらいいな。お仕事は大変だ。手が腕が、その神経が破裂しそうでおっかない。でも未知のことを体験したり、できないことができるようになったり、できることが少しずつ増えていく楽しさや職場の人たちによくしてもらって。だからこそ無事に過ごせたと思う。だからこそ充実した日々を懸命に駆けていった。

できればもっと永く、そう思うこともある。寂しい、寂しいけれど次のお仕事がある。いろいろなお仕事に携わって、いろいろなことができるようになる、どこでもいつでも生きていけるようになりたい。だからがんばろう、次のお仕事も。来年のめぐる潮合を楽しみに。

2021/10/11

1786.

今日は大時化のため午前中でお仕事は終わり。
午後は手紙といっしょに羅臼昆布と沖縄の西表島で買った黒糖を知り合いに贈った。日の出づる地の涯からのおくりもの、喜んでくれるといいな。そしてこういう、遥か向こうの微かなつながりこそ自分にとっておきなんだと思えた。だれかをひねもす念頭に浮かばせておくのは結局、心が疲れる。ひたすらに気を遣うばかりで心は朽ちる。

人間関係にまつわる個性をしっかりとわたしに伝えてくれた女の子がいた。わたしも自分のことをもっと理解しないといけない、自分自身をもっと大切にしないと。
人間交際論ばかりが先回りする。あなたのことを知りたい、あなたといっしょに過ごしたい、傷つけたくない、幸せであってほしい、いっしょにより良い日々を過ごそう。人間であるよりもわたしであるようなものを大切にしないといけない。人間という殻を破って、鱗を剥いで、それからはらわたを握り締めて。


2021/10/10

1785.

この2年のあいだ、ちょうどコロナ禍の時代に私は恋心を燃やし続けていた。恋に敗れて散った心がひとつの季節が巡るたびに色を変えて、また新たな灯火を点ける。わたしは生真面目に人間を愛することしかできない。でもそれだってむずかしい、ね。
仕事に専念して出世したいといって一方的に別れを告げられたり、二人の時間をかさねてかさねたその頂きで、すでに交際相手がいることを告げられたり。涙と伴にこぼす彼女たちのことばは暗がりの喉奥から苦しそうに這いつくばって出てきて、それがとても人間らしくて愛おしいのだけれど、この2年のあいだ、だれひとりとして話し合うことすらままならなかった、それがわたしにはとてもつらい。

友人が交際していた職場の女性に友人の良いところを聞くと、その女性は「ちゃんと話し合えるところ」と応えていた。それなのに結局のところ、友人が一方的に別れたがって、交際関係が数ヶ月しか続かなかったのも二人の事情を知っていただけにかなしい。


話し合うことはむずかしいことだと思う。だれにでも言いづらいことがある。どんな受け入れる気概があると教えてもらっても、自分自身が引き金を引かない限り言えない。私も内心を他人に打ち明けるのが苦手だから。苦手だからこそ克服したいと努めているけれど。だけど、いちど親しくなった人間に心を閉ざされると心が痛む。

わたしの心はひどく疲れてしまっているけれど、わたしの心はまた、光を求めて自然と前に進むことができる。こういうことを言ってのけると、わたしは前からその点は変わっていないなと思う。わたしはやっぱり人生を、自分の人生を肯定的に生きている。


2021/09/29

1784.

 いろんな不安や不満を抱えながらも、それでも耐えて、がんばっている。生きていこうと思う。そういう人たちによく出会う。特に女性の、あの忍耐強さというか、母性を源泉とするところのあの底力が火を見るような明らかさで顕現する。

がんばるしかない、なんていわれるとそんなことないよと言いたくもなる。だけど言わない。
わたしはそれを見守ることしかできない。
見守るだなんて、なんて無力なことばだろう。
人の進む道に魂を馳せる。
そのあいだ、鳴くことしかできないわたしという鳥を誰か撃ち落としてくれないだろうか。
人間と関われないというのは、とてもつらいことだ。

2021/09/02

1783.

秋と呼ばれる月に移ろいで、風が冷たい空気を送り込んでくる。薄ぼんやりとした雲の隙間に残像のような青空。この世界を歩く人間はひとり、ふたり、わたしを含めて数えるほどしか残っていない、なんて。そんな想像に駆られる静けさが私の目に映る。部屋の埃を払って再認識する日常が儚い。つながることによって、むすぶことによって約束されるいかなる輝きも心底には届かない。

2021/09/01

1782.

雨を降らす曇空を貫通するような叫び声がわたしの胸のうちで埃かぶったように汚く芽吹く。身勝手に振り落とされたわだかまりを靴に染み込ませ、夜の湿った街灯を映した水だまりをひと息に飛び越えて帰路を急ぐ。そのひと息が重く、つらい。人心から吐き出された不調和が雨の滴を不透明にし、固い音を響かせる。今日はとてもしんどいでしょう。消灯した部屋の冷たいベッドで静かに雨音を聴くのがいい。どうか、ゆっくり休んでください。

2021/08/31

1781.

夏の夜を照らした月が晦の先へ寝入るころ
秋風がほんのりわずかに吹きはじめる
あの人肌を焦がした炎暑の気配も
蝉が鳴きやむのにしたがって消失する
夕暮れどき 空に鮮やか紅のヴェール
散らばった細い雲を包み込んで溶ける
私たちの心
打ち解けたかな
八月のかき氷が時の迅流に耐えて残っている
もう少し もう少し
ゆっくり 深く呼吸を続けながら
紅色の手でそっと触れ合いながら
秋を迎えよう

2021/08/30

1780.

昨日は夕方に散歩した。午後6時は蝉が鳴いて夏の気配があったが午後7時には秋の風が吹いていた。
今日は気が落ち着いている。夏の終わり、憂の状態だと思う。心の眼があるそこは、仄暗くて静かで、落ち着いていて、少し冷たい空気があって、いくらか心地良いとさえ思う。死ということばがいつもより近く、だから心にそのことばがよく浮かぶ。きっと私はこういう冷めた世界が好きなんだなと思う。見渡せば世界はいつだって火焔が海や空気をたぎらせ、人の心は渦を巻いて。だから私は死というエネルギーを失った世界を夢見ながら瞑目して深く沈む。静かに、心地よく。

2021/08/27

1779.

主体性がないと自分で自分をいう若い人によく出会う。自分の意見を持たず、自分で考え決断することがない、自分から他の人に頼みごとをすることもなく、相手の顔を伺い、仕事に従って、なにか趣味に没頭するわけでもなく、生きている。地方に限らず、都会でもそういう人に出会ったことがある。いずれの割合が多いか分からないけれど、女性的なひとに多いと思う、おだやかで、羽毛のようなやさしい印象を与える、そういう人。

主体性がないという人は、自分に自信がないのだと思う。相手の気持ちに心配りしすぎているのだと思う。自分自身の声をすなおに聞いていない、聞けていないのかもしれない。

私は、主体性のない人という特徴づけは洗練されていない認識だと思う。少なくとも20歳を越えているような人間で主体性のない人間はいない。誰しも、主体性をもっている、というのが私の考えだ。私だってときに主体性のない行動をする。だけど、私は主体性のない人ではありえない。


おだやかで、羽毛のようなやさしい印象を与える、そういう人でさえ、かならず心のなかで声が聞こえる。それを本音というのは俗だけど、良心というのも硬すぎる、心のなかの声、自分の気持ち。きっとそういうものをどんな人でも持っている。主体性がないという人は、自分の気持ちをなかなかすなおに受け入れられていないのだと思う。それがどんな些細な声であっても、自分自身の心の声を聞くこと、そしてそれに正直に応えること、そうして人は主体的に行動することができる。

2021/08/19

1778.

ー 哲学の基本的な要請

前世紀、哲学は傲慢と批難された。哲学は人間の思索の世界と現実の日常的な世界の乖離を確実なものとしてしまったからだという。そこから哲学は、確かに日常やいわゆる経験世界との接点を追求することになった。しかし、哲学者は哲学的概念の生成を哲学者個々の感性に委ねることによって哲学を裏切ったといってよい。哲学は、改めて考え直されるべきである。


思考の世界、観念の世界と経験世界、外界とを結びつけるものは人間の脳である。外界から得た感覚及び認知情報を脳が処理することで、思考の世界が現象するという事実に注意しなければならない。このことを理解しなければ、いつまで経っても哲学は無益な概念を生成し続けることになる。観念の世界に広がりはない、もちろん始まりも。哲学や思想は客観的(物理的)に見れば人間の脳で生じる一つの事象に過ぎない。観念の世界に外界に適用すべき概念を用いるべきではない。これらは基本的な哲学の要請である。私たちは事実と向き合うべきである。なぜ、わけの分からないことを考え、無益な概念を生み出し、自らもそのことを認め、それが哲学だから仕方がないなどと嘯くのか。


哲学は常に理解できなければならないと私は思う。それは、哲学は常に解釈できるものでなければならないというのとは全く異なる。わけの分からないことを考えるということは、理解できないことを考えるということであり、それはただただ矛盾であるが、自分自身の知性の原則を無視していることにほかならない。哲学は、刻一刻と洗練される認識に対して、最適な概念(新しい概念の名前ではない)を生み出すことを要請する。

2021/08/18

1777.

 あるタレントの差別発言が問題となっている。それは端的にいうと、自分にとって猫の命はホームレスや生活保護受給者よりも大事なものであるということ、そしてホームレスたちの命はそれに比べて軽いというものである。このような発言が差別的であると指摘され、インターネット上で騒動になった。この騒動に対して、当事者のタレントは謝罪と反論を行なったが、それによれば、どんな綺麗事を並べ立てても命には主観的で相対的な優劣があるという、そしてその価値基準に照らすと、猫の命はホームレスよりも大事であるという。そして、批難者の誰よりも、自分はホームレスや生活保護受給者に対して貢献を行なっている割合が高い。それゆえ、批難者の綺麗事は説得力に欠けるというわけだ。


現代社会において、多くは相対主義に依って判断しているように見える。価値観は相対的であり、人それぞれであるという考えが主流である。一方で、今回の問題のようにある一人の思考について、間違っていると指摘できるのは価値の相対性に基づいているのではあり得ない。なぜなら、ある命題は間違っているか正しいかのいずれかだからである。それが間違っているという指摘は、より間違っているとかより正しいということを一切含意しない。


あるタレントの発言は命を相対的価値観のもとで捉えていると考えてよい。価値観は人それぞれであるということ、そしてそれに基づくと自分にとって猫の生命はある社会的地位の人間ーホームレスや生活保護受給者ーよりも大切であるのだ。しかし多くの人間は人間の、その個々の命をなにものにも代え難いものとみなしている、すなわち人間の命に絶対的価値を与えている。誰であれ、いかなる人の命をも犯すべからず、といわれる。そうしてみると、この騒動は人間の命が相対的価値か絶対的価値かという問題として捉えることができる。ならば、自ずと答えが見えてくる(と私は思っている)。



当のタレントは猫の命が大切であることを説明するために、その比較対象としてホームレスや生活保護受給者を持ち出すべきでなかった。自分にとって、猫の命は大切であるというだけならば、誰もが理解しうる。身近な人間の命を他の誰よりも優先するという考えも理解できるだろう。しかし、ホームレスや生活保護受給者の命は軽いという判断は全く必要なかったのである。一方の命が重いという理由で、一方の命が軽いとはならない。それが人間の命が絶対的価値であるということの意味でもある。仮に私が災害に遭い、多くの被災者のなかで奇跡的に家族だけ助けることができたとしても、私は救うことができなかった多くの命に対して申し訳なく思うだろう。なぜなら、いかなる人間の命も大切だからである。



ところで、当のタレントの思考の錯誤についてこれ以上、指摘する意味はないだろう。ましてや憶測に基づくだけの批難など無益。彼の築いたキャリアをこの束の間の誤りのために台無しにする理由はいかなる人間も持っていない、と私は思うのだが。

2021/08/13

1776.

女性の結婚に対する意識について。ある人の身の周り、特に長年付き合ってきた友人や親戚が結婚し子供を授かっている場合、その人は肩身の狭さ、寂しさ、あるいは焦りを感じる。このことは、多くの女性が経験しているのではないか。当の友人や親戚も、それを経験したからこそ決断したのかもしれない。女性が感じる肩身の狭さ、寂しさ、焦りをどのように解釈し、どのようにそれを乗り越えるべきか。
昨夜、友人が話してくれたこうした感情を生真面目に今日も考える。

考えごとをノートにいつも手書きしているが、最近はパソコンを使う頻度が高いこともあって、パソコンに移行しようかと悩んでいる。パソコンを使えば、ここに反映することもできる。しかし、今日はノートに書く。

2021/08/10

1775.

「被曝体験者、首相挨拶に怒り」という記事を読んだ。
平和祈念式典での首相のスピーチや姿勢に対する批難は大なり小なり毎年の如くに起こるものであるけれど、今年の菅首相のスピーチは批難の声が大きかった。それは原稿の読み飛ばし問題に追随する形で世間を響かせていった。読み飛ばしに関しては意識の問題ではなく、原稿が「読めなかった」という可能の問題であったという弁明が聞こえる。
しかし、被曝体験者が怒っているのはそのことではない。私たちが批難するのはそのことだけではない。スピーチにおいて、首相の意図や思いが全く伝わってこなかった、このことが問題の本当である。私たちは国民の代表である首相のあの大切な任務遂行に、はっきりと不快を覚えてしまった。人前に立ち原稿を読む、そのむずかしさを私たちも理解する、首相も人間である、人間であるならそれなりの気持ちをもっている、ましてや国民の代表である首相ならなおさら大きな気持ちをもっているにちがいない、そうでなければどのようにして私たち国民を内閣の描くより良き社会に導くのかわからない。なにひとつ気持ちがないのであれば、内閣のふさわしい人間に任せたほうがいい。すこしでも気持ちがあるのであれば、それを伝えようとして欲しい。
原稿というのは自分の意図に最も相応しい言語表現をするためにこそ、用意されていなければならない。だから原稿を読むことは決しておかしなことではない。ただ、それだけで思いは伝わらない。政治家を志す人間なら誰もが知っているはずの演説の技術を忘れてしまったのだろうか、それとも、だれもそれを知らないのだろうか。

スピーチにおける姿勢を批難されるのは、現内閣総理大臣に限った話ではない。私はまだ四半世紀ちょっとしか生きていない人間だが、首相のスピーチで気持ちが伝わったと感じたことは未だかつてない。首相だけではない、街頭演説をする政治家もみな、ただただ声を大きく張り上げ、なまえを繰り返しているだけのように見える。なるほど、彼らは務めを果たしているのだ。これは日本政治家への道、その道を真面目にすすむ、そうしなければ、選挙に勝てない。政治ができないのだ。いや、私たちは思う。いまの政治家になるための道に違和感を覚えない人間が果たしてこの先、日本社会、国際社会のしくみをよりよくできるのだろうか。

2021/08/09

1774.

 風荒ぶ、雨の匂いを市街によせて、息絶えた蝉や蜻蛉を転がす。私は背筋を伸ばして歩く。風をきる、夏の歩道が天に向かって延びている。風が懐に刺すその刃は露ほどのぬくもりを奪っていった。空洞の在処を確かめた手にだけわずかに残った燃殻もほどなく消える。

2021/08/08

1773.

炎暑の蝉が生を尽くして合唱する。積乱雲のいかめしい、思いを深く秘めた複雑な表情、空は鮮明に青々として輝いて。指に張り付く蟷螂と徒らに過ごした夢がよみがえる。栄えるものはいずれも朽ちる、生きた証を台風が持ち去ろうと、東の空を灰色に闇雲で染めてゆく。栄えるものは朽ち、ことばは若々しい色味を失うが、その心根は土塊の奥に沈みながらもなお、深く呼吸し続ける。

2021/08/02

1772.

わたしは戻ってきた。
戻ろうと思う。
戻りたい。
きっと、ことばのために。
ことばはいのちのために。

取り戻すもの、捨て去るもの、あたらしく変えてゆくもの、まるですべてが散らかった部屋のような心が、自分の居場所を知らせる極めて単純なものを見つけたのだ。

わたしの場合、環境の変化は獲得と消失の過程でなく、単なる揺らぎにすぎなかった。それは感情の揺らぎに似て、かならず、落ち着く時点がある。それはわたしにとって、ことばと絵と音楽に満たされた生活、その奥深いところで、思索が忙しなく鼓動する生活だ。

2021/05/11

1771.

絆とか平和とか、こうしたことばたちを為政者やメディアが人々に向けて使うこと、甚だしくなったと感じる。大河ドラマの各々が太平の世を目指すと、わたしたちに向けて、口に出しては志半ばで死んでゆく。小学校の道徳の時間で覚えた曖昧模糊としたことばは成熟した個々のなかでこそいまさらに実るもの。そうして身についたことばが声となって、あるいは書体となって現れるとき、わたしたちの心は動く。現状、為政者のいうところの絆はただ彼らの本心を隠すところのすだれのようだ。

2021/03/16

1770.

昨夜、静かにひらかれた市子さんのインスタライブ、とてもすてきでした。そして、しあわせ。思い出すだけでもうれしくってたまらない。
わがままに「羊のアンソニー」という曲をリクエストしたら歌ってくださったのも、きっとあの静かな時間帯だったからかもしれない。ほんとにほんとに、ありがたく、しあわせでこころがあふれそうになる。「自分」から解き放たれて、自由になれる。
ときどき、歌のたまごたちが彼女の声の光に照らされて現れる時間があって、それもまた、お気に入り。

市子さんの声を、息づかいを聴く。楽器の音色を聴く、せかいの音を聴く。
そうすると、こころの深層から原質を抱いたしあわせが目を醒まして、ちょうど春に芽の出るように、ぽっとこの世に生まれでる。

2021/03/09

1769.


この島には鳥が多い。昼も朝も、四方で鳴く。夜はカエルの大合唱といっしょにフクロウが鳴く。ときどき得体の知れない、その姿体を想像しがたいほど図太い声で鳴くのもいて、ジャングルから聞こえるといっそう異様に思える。空を見上げると、ワシが飛んでいる。町ではクイナが歩きまわって可愛らしい。水田は白と黒のサギの寝床だ。散歩していると、いっせいに飛び立つ姿がうつくしい。
どこを歩いても鳥たちが飛んだり歌ったりして、それがたのしい。この島にそれだけ多種多様な鳥たちが生息して、遠国からさまざまなありがたき恵みを、世のおもしろきをはこんでくる。


2021/03/08

1768.

フェリシモから送られてくるメールに今週の星模様と題されたのがある。ふたご座の今週の行方を占ってくれる。毎週楽しみにしているわけでないけれど、読んでみるとポジティブなことがいつも書かれてあって、気が前向きに和んでゆく。あたたかな風、のような、そういうおくりものに思わず涙を流したくもなる。あたたかな風が魂に呼応するのを感じる。この服を脱げば、わたしも。


去年も今年の冬も、好きなことや好きじゃないことが混ざりあって、渦巻いて、過ぎていった。思いどおりにいくこともあるけれど、それはどうかしてわたしの無意識のなかへ溶け込んでしまう。思いどおりにいかないことだけが意識の皮相に針のように刺さって流れようとしない。それで、気が落ち込む。わたしの気持ちをふたたび底からふわっと高めてくれるのは、もちろん身近な人情や遠くからのたよりもそうだけれど、ときにはわたしとはまったく関係なく流れる音楽だったり、そしてあたたかな風だったり、する。

2021/03/07

1767.

海にきらめく光は、曇天を貫いてやってきた。
ちいさな風と波のさなかでたわむれる。
雨は降らない。まだ。
光たちがそのひとときを充たすまで。
光たちがまた別の時間を見つけて去るまでは。

港の堤防を歩き、その端。
からだを大きくひろげて寝そべった。
わずかな冷んやりとした風が頬をなでる。
目を瞑る。
息を吐く。
時空の深淵へからだが還ってゆく。
そんな気がする。

2021/03/05

1766.

注がれて水の弾く音が良い。
注がれて音を鳴らさぬ水もまた、良い。

2021/03/01

1765.

ふたつ、思い出したことがある。


ひとつめ。わたしのような人間がこの世界のどこかにきっと存在していること。わたしのように悩んでいる人間が、きっと存在している。


ふたつめ。本気で人を好きになったことがわたしにあり、本気でわたしを好きになったことが誰かにあること。二つの経験がわたしをしずかに満たしている。



2021/02/25

1764.

I dive into melancholy and am objectively conscious of myself. Though I don’t understand it, this melancholy makes me comfortable a little. It’s like my being in deep blue.

2021/02/14

1763.

伏目の月の山枕
すみやかにすさぶ風
萬の夜を研いで春

矢のごとく往く時を追い
腕を脚をそのかたちを
ひとへに愛でる

燦々たる日照りに
燃える背中
思いに浮かぶ花火の跡

わかれた枝の先々の思い
届かぬもの届くもの
みな冬めいて星と光る

2021/02/12

1762.

 天気の移り変わりが早く、昨日の嵐も嘘のよう。雲小さくたゆたう青空が目一杯に広がる。鳥たちが入り江を横切り、山へ向かって飛んでゆく。

風が春の装いをして吹けば、服がなびいて人影が踊る。この風にちょうど良い音楽を知っている。だからわたしはそれを聴きながら、堤防で仰向けになって空を見ていた。

2021/02/11

1761.

 嵐の日、雨音が瞬きの間を満たす日。
カーテンの隙間から明るい時間が
けむりのようにながれてくる。
静寂の呼吸のさなかに触れる、
明るい空気。
朝日の居処を知る光たち。
音楽の隙間にいるような心地して、
脱け殻のなかで瞑目し耳を澄ます。
眠気がまた歩くように
遠く向こうからやってくる。


2021/02/10

1760.

二月もなかば。立春を呼ぶ声に背筋を張った風が吹き返す。あたたかさのために、深い眠りについていた草木たちが目を覚まして。

今日は曇り空。いまだ心の執着がわたしの意に反して、また呼吸の落ち着きに逆らってさまざまな臆見を産みだしている。
聞いてもいないことを本当のことだと思ったり、むかしの話を疑ったり。根拠のないことがらをさも本当のことのように錯覚して、ふと我にかえってひどくつらい思いをする。ごめんなさい、と思う。
それでも「考えすぎだよ、今日」と自分自身に声をたびたびかけ慰めもして、ひと息、ふた息、数えている。

執着に対して、それによって産まれた臆見からは何も判断しないこと、そして執着を決して拒否しないこと。


2021/02/07

1759.

ストレスフルな日々が続く。たのしいことも緊張することも、癒されることもあるけれど、つねにどこかに、心のどこかに鈍く重たいものが沈んでいる。 人のことを考えすぎている。長閑な勤労生活とは真逆の心の世界に疲れる。

自分のことを考えよう、たくさんやり甲斐のあることにかこまれているじゃないか、そう思う心も、その他面では、遠く離れて結ばれた人間関係に執着し続けている。 

 執着心の鼓動を無視することはむずかしい。感情はどうしようもなく働き続けるのだ。 環境世界はあまりに刺激で満ちている。いったん生起した感情は濁流のように激しく流動する。自分を律するには環境もまた律しなくてはままならないのだ。

2021/02/03

1758.

音楽、絵画、文筆、それぞれがわたしを異なった仕方で表現する。わたしがいま聴いている音楽もときにまた、わたしをよく表現する。 

この世界はたくさんの、測り知れないほどの音楽であふれていて、しかも有難いことに現実に聴くことができる。たのしいときもしあわせなときも、かなしくつらいときも、わたしにあなたに寄り添ってくれる、音楽。

音楽をとおして、うれしさもかなしみさえも、ひとつひとつの感情がきらきらとすてきに輝いてみえる。 そうして、すばらしき輝きに充たされたわたしは次第に没し、果たして消えてゆく。わたしの死はそのようであるのかしれない。わたしの死、それは真っ白な死。そのときまで音楽が寄り添ってくれたらいいな、と思う。

2021/02/02

1757.

朝のまぶしくもやさしい太陽の光をからだを広げて全身で受けとるように、わたしはあなたのせかいを受けとっています。

2021/02/01

1756.

二月になった。立春もすぐだ。鶯が鳴く。初音の時季は手の先に見える春の、心への到来を待ち遠しく思って、日が過ぎるのがほんの少し遅く感じる。振り返ると、早くもひと月が過ぎたという。不思議なことだ。 人類に避けられぬ破局があるように(その問題群はますます増えていくようにさえみえる)、個々の人間にも避けられぬ別れというものがある。 老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよ見まくほしき君かな と昔の人は歌っている。 わたしは出会いと別れの人生だと自分自身を運命づけていたが、自分の言動を反省すると、やっぱり人と別れるのはつらいことだと思っているところがある。しかも別れということばのなかで、死別の影はひどく薄い。死別は避けられない別れだけれど、わたしにとってはあまりに遠いことのように感じる。身近に人を亡くしてさえいても、今日挨拶をした人が明日死ぬということは想像しがたいものであるし、仮にことばで理解できたとしても、それを信じているとは到底言うことができない。出会いと別れが話題となればまた人は一期一会と言うけれど、それは会得しがたいことばのようにも思える。一期一会はいつも過去から思い出されることばであって、未来に向けられたことばではない、と。 でも、もし明日死ぬのだと(信じているのではなく)知っているのであれば。 人類の来るべき破局を人間の別れに置き換えるのは安易な思考にちがいないけれど、破局について書かれた本(『ありえないことが現実になるとき』)を読んで、ぷかぷかと思い浮かぶことがいくつかあった。死別はその、ひとつ。 今日は外気温が20℃を超えた。

2021/01/31

1755.

晴れた、晴れた、今日は晴れた! やった、朝の散歩と日光浴で見上げた空がほら、青く見える。身体が潑剌と働く。セロトニンが。ふふふ。 本を買った!絵を描いた!ねぇ、見て。このアートワーク、いいね。すてきな音楽を見つけた。たくさん話した!ああ、まぶたのうらで充満する冬の光。今日はよく晴れた。

2021/01/30

1754.

日本のどこにいても、南の島にいてもやはり冬のあいだは陽がとおい。陽がとおいと気が滅入る。気が滅入って、幸せのかげに不幸せを見てしまうし、不幸せの喉奥にこれまた深い奈落を想像してしまう。人をよく疑ってしまうのもこういう時季だ。自分自身も含めて人を信じるのはむずかしいね。ごめんなさい、と思う。

2021/01/21

1753.

両手をひらいたくらいの大きな蟹が岩さながらに立ち、河口のすみっこで、おだやかな小波と朝陽のリズムに身を浸している。鳥たちが梢枝から水面へ飛び込み、大きなまぼろしを前にまるい目を輝かせた小魚たちを飲み込んでゆく。ポータブルスピーカーから流れる軽快な音楽を聴き古来の風を全身で受けるわたし。わたしは縦笛を風が通りぬけるように方向け、音が鳴るのを愉しんでいた。

2021/01/20

1752.

太陽の光がまぶしくぼくを照らす。ぼくの、あの大人しい胃液までもがふつふつと音を大袈裟に立てる。沸騰石のはじけるような音が内臓の洞に響く。朝だ。いや、もう正午だった。

2021/01/19

1751.

きっと誰も知らない海辺で淡々と作文する。大きく欠伸して、自分のせかいを潮風にさらす。船の往来を遠くに聞きながら或る人を脳裡に浮かべる。数多なる輪郭のなかで、わたしと同じように文を綴る姿が最も明瞭に見える。ことばを大切に思う人だ。彼女を、彼女のことばを思い出すたび、わたしの粗野な感性が姿勢を正しくするように緊張し、そしてにわか仕立てのことばを整頓するほどに変わる。ことばをさがす、それがわたしたちの合言葉。目交いの現実を透した瞳の、いっそう奥深くで渦巻いているものから、ことばをさがす。

2021/01/17

1750.

強風が吹く。人家を来訪する鳥の声は物怪のこだまを宿している。樹々がざわついて、こころも落ち着かない。でもね、このざわめき、ゆらめきはいいものだよ。そう、教わった。 聞いている。聞こえるか。雪降る音のような、憂夜の沈む音。 今日は静かに、ね。

2021/01/16

1749.

 良いもの、快いもの、好きなものがたくさんある。やりたいことが。知りたいことがたくさんある。いいだろう。好き、みんな好きだ。その先は死だ。

2021/01/10

1748.


いまのわたしを4年前のが見ている。
強く、とても強く。

***

彼方の国の幸福な老婦人と

同じ言葉を喋ることが

私にもできる

もう一度 新たに生まれて来ることが

できるならば

他の誰かでなく

私のような人生を過ごしたい

そしてまた一度だけでないならば

何度でも 何度でもそうしたい

そう思うだろう

私のような人間がいい

そう思う

四半世紀 私は生きた

たったそれほどの時間だけで

たとえ私のような阿呆であれ

私の最大の恵みが

人間として生まれたことであると

思いなすことができると知った

さて これらの言葉は

誰のものでもない

いずれこの世から

私がいなくなったとして

少なくとも誰かが

同じ言葉を綴るだろう

私はそのことを確信している


誰にも何も遺すことができず

これからも何も果たすことができぬことを

私は己の野心が滾る間にも予感する

考えてみるならば 

私は自分の為すべきことを為すという

唯だ それだけなのである

それだけが私の人生なのであって

それだけで人間はよく生きる

万丈なる岸壁に

いずれこの身を削ろうとも私は

少なくとも同じ真理を

同じ言葉を綴るだろう

私はそのことを思う

強く とても強く


2021/01/05

1747.

明けましておめでとうございます。

こうして書こうとはじめるのもきっといろいろなことがはじまろうとしている、その徴表にちがいない。いろいろなこと、クリエイティビティによって発現するすべての活動が、短命のしるしを背負い、わたしの胸の奥で(自転車を漕ぎ続ける人のように濁った息をときどき吐き出しながら)春へ向かって胎動している。

今年の初詣に引いた御神籤は大吉だった。充実した正月を送った。束の間のしあわせ。きっとそれに相応しい嫌なことがおこるんだね、なんて思い至ったまま過ごすのもいまやむかし。わたしは自分の意志で偶然を支配しよう-近代西洋の啓蒙主義者が懐いた観念をそのままに-と欲している。