2021/12/15

1793.


虚しさ、そのなかでも強力な虚しさに襲われることがある。身体全体に眠気が襲ってくるみたいにどうすることもできないような虚しさ。

この虚しさは歳を重ねていけばいくほど、わたしの心に訴えかけるようにして染み込む。そもそも、わたしは歳を重ねれば重ねるほど、この無邪気な訴えがゆっくりと鎮められるか、そうでなくともより上手く付き合えるのではないかと常々思ってきた。それは別の見方をすれば、自信の表われ、自己肯定感の高まりと内省の充実を示すものであるかも知れない。確かにわたしは生を肯定する、生の肯定まで考え抜いた、人生を肯定的に捉える根拠を見つけたのだ。虚しさは生を肯定するわたしの前に姿を表すことはもはやないだろう。が、そうではなかった。それは段々と大きくなって、強くなって現れる。いまやわたしにとってそれは底知れぬものとなった。底知れぬ虚しさである。いったい、この虚しさの湧き起こる余地がどこにあるだろうか。わからない。
それはわたし、あるいはわたしたちの思いもよらない、全く別のところから湧き上がっているのかも知れない、そんな得体の知れない気配を感じる。対照的に充実した日々、考えることの、知ることの楽しさ、美しいものに触れる喜びたちがわたしを満たしていく日々、周りの人たちのおかげで快適な生活、それらは明らかに自分自身の内発的な感情である。わたしはあるとき「また赤児として生まれるならば」と考えたことがある。わたしは今でも思う、また自分がいい、また何度だって自分自身のように生きたいと。
それなのに、それなのにこの虚しさは。いったい、どこから来るのだろう。消えてしまいたいという抗い難いほど強い気持ち、自分とも、何者とも関わりたくないという抗い難いほど強い気持ち。もう一切の関わりを連絡を断ちたいと思ってしまう。もうそのように決断してしまう気持ちのはやり。


昨夜、わたしはこの底知れぬ虚しさに襲われ、その只中にいた。この強力なものの根源がわたしのなかのどこにあるのだろうか。これと付き合っていくには、わたしの心は脆弱が過ぎやしないだろうか。もしそれがわたしにとっての試練であるならば、ひどく不条理であるとさえ思う。いや、単なる眠気のようなものだと認めて過ごせばいい、そう思う自分も今はいる。本当に、そうできればいいのだけれど。世の中には、なにか救いがあると期待すると抜け出せなくなる穴のようなものがあるから。