2021/08/10

1775.

「被曝体験者、首相挨拶に怒り」という記事を読んだ。
平和祈念式典での首相のスピーチや姿勢に対する批難は大なり小なり毎年の如くに起こるものであるけれど、今年の菅首相のスピーチは批難の声が大きかった。それは原稿の読み飛ばし問題に追随する形で世間を響かせていった。読み飛ばしに関しては意識の問題ではなく、原稿が「読めなかった」という可能の問題であったという弁明が聞こえる。
しかし、被曝体験者が怒っているのはそのことではない。私たちが批難するのはそのことだけではない。スピーチにおいて、首相の意図や思いが全く伝わってこなかった、このことが問題の本当である。私たちは国民の代表である首相のあの大切な任務遂行に、はっきりと不快を覚えてしまった。人前に立ち原稿を読む、そのむずかしさを私たちも理解する、首相も人間である、人間であるならそれなりの気持ちをもっている、ましてや国民の代表である首相ならなおさら大きな気持ちをもっているにちがいない、そうでなければどのようにして私たち国民を内閣の描くより良き社会に導くのかわからない。なにひとつ気持ちがないのであれば、内閣のふさわしい人間に任せたほうがいい。すこしでも気持ちがあるのであれば、それを伝えようとして欲しい。
原稿というのは自分の意図に最も相応しい言語表現をするためにこそ、用意されていなければならない。だから原稿を読むことは決しておかしなことではない。ただ、それだけで思いは伝わらない。政治家を志す人間なら誰もが知っているはずの演説の技術を忘れてしまったのだろうか、それとも、だれもそれを知らないのだろうか。

スピーチにおける姿勢を批難されるのは、現内閣総理大臣に限った話ではない。私はまだ四半世紀ちょっとしか生きていない人間だが、首相のスピーチで気持ちが伝わったと感じたことは未だかつてない。首相だけではない、街頭演説をする政治家もみな、ただただ声を大きく張り上げ、なまえを繰り返しているだけのように見える。なるほど、彼らは務めを果たしているのだ。これは日本政治家への道、その道を真面目にすすむ、そうしなければ、選挙に勝てない。政治ができないのだ。いや、私たちは思う。いまの政治家になるための道に違和感を覚えない人間が果たしてこの先、日本社会、国際社会のしくみをよりよくできるのだろうか。