2018/12/06

1712.

朝はゆっくりと深呼吸をしながら、腹部が緊張するのを鳥の冷たい鳴き声といっしょに感じとった。支度をしても時間の余裕がある。ペンをもって、ノートをひらいた。私は理解がわるいので、ノートを使って本を読む。理解の良い人はそのあいだ、一冊二冊と読み終わり、そして三冊目の分厚い本を読むだろうか。
十二月になった。最近の冷たい雨と大雨で、秋の色彩は消えた。風景は冬めく。この時季の習いか、夜と朝がかさなるように瞼が静かに閉じる。眠い。どうかして、このままずっと眠りはしないか。それは、子どものころに抱いた夢だ。

2018/11/30

1711.

紅葉は派手やかにうつり、見頃にはこれいっそうのことはないと見えるのが、そのうつくしさを際立たせる。私も紅葉が好きだ。それを見ながら、毎年の秋を満喫する。大学の敷地に赤葉が見えたとき、私はいつものように喜んだ。いつものように道を歩けば、赤葉がきまってよく見えた。それがいつしか驚きに変わった。紅葉は派手やかにうつり、うつりかわっていった。結局、私は今まで見たもののなかで最もあざやかな自然を見た。自然はその心を燃やしていた。そして、青空を地にして錦秋の葉のかたちをとらえ、はっとする。のこりひとつきを夢に数えながら、つごもりの日を過ごす。宵に浮く月をとらえ、あくびする。

おぼろげに聞く、モノローグ。
秋の夜のエコーロケーション。


2018/11/23

1710.

「また会いましょうね。」
という、わたしよりもうんと歳をかさねている人で、わたしよりもいっそう活気にあふれる方から言葉を頂いたので、わたしは嬉しく思った。自然のなりゆきがあるとはいえ、その終着点へ少しでも早く向かおうとする、こころの努めがある。今度は会えなかったけれど、わたしは来たる日のためによく過ごそうと思った。

およそ誰もが「一期一会」という言葉を知っている。
それはすでに結ばれたご縁を大切に扱うことを言うのでなしに、わたしたちの、ある機会に臨むさいの心がまえをいう。たとえば、それはときたまの食事会やデートに際しての心構えである。良き出会いがあったから「一期一会」というのではない。
「一期一会」という言葉は、毎秒と毎秒、あたまのなかに刻まれるべきものではない。毎日のことに「またとない」と思うのは無理があって、わたしたちは「明日死ぬかもしれない」と思うよりも「明日はなにをしようか」と思う。それをよくないことだというのはやはり無理があり、さらには「毎日のこともまたとないと思って大切にしよう」といったところで同じである。
「心がまえ」とは、来たるべきものに対して為される備えである。
日常において来たるべきものとは、非日常である。非日常に対する「心がまえ」は日常のうちで為されねばならない。それゆえ、そのための日々の稽古がある。あるいはそのための日々の修行がある。「一期一会」は茶道の言葉であるから、それがどういったものであるか、いまや明らかであると思う。

わたしは思う。もっともすぐれたものに会う機会があるならば、わたしはどのような人間であるべきだろうか。


2018/11/20

1709.

バスの窓の外を眺めると、県庁前の公園は紅葉が盛んだった。そこだけ黄色の空間で、じっと見つめることはなかったが綺麗だと思った。
つい最近、和洋混合となった庭園の薔薇を友人が写真に撮って送ってくれた。その庭園は以前私の住んでいた家からすぐ近くにあった。数百円程度の年間パスポートを購入して、休みの日などは足繁く通っていた。薔薇園をのぞむ洋館があって、よく撮れた写真があればそれを写生した。朝に来て散歩したりベンチに座って本を読むなどして憩う人もある。私もたびたびその一人となって、秋や春などは特別の音楽に耳を傾けながら平静なる心地になった。秋は詩情豊かな季節で、その生起はささやかだ。
庭園の写真を見ながらむかしのことを思い出したが、「思い出」は紅葉の葉っぱのようだ。それはたんに記憶されたものでなしに、情感のともなう記憶であって、その生起はもの静かだ。

紅葉が特に映えるのは建物や事物と一緒の構図に組み込まれたときで、それは「変移」の強調といわれる。歴史的な建造物が紅葉の衣装に包まれるとき、風が吹き、人は歴史の移り変わりを知る。私たちが変わらぬものと信じた諸々が、そうではないかもしれないとふと思われる。他方、移り変わりのなかにあって残存するものが知られる。そこに私たちは現在を見るかもしれない。

“歴史のゆえに現在がある”
と人はいう。これは真理なのかもしれない。現在とは消極的なもので、積極的なものはつねに変移に呑み込まれる。変移の時代というのは積極的なもので溢れている。それゆえ、「ダイナミックな」と形容される。現代はどうだろうか。もはやロマンは信じるに値しないとか抱くだけ無駄だと人々が言うにしても、次のことは信じてもいいと私は思う。もし私たちが永遠の愛を誓うならば、私たちは永遠の愛を誓うべきではない、と。

2018/11/16

1708.

ありがとう

右から読んでも 左から読んでも 午前三時

羊でも数えて 眠れない夜を過ごそう

目的のためには 嘘をついて

朝を迎えよう



血まみれになったキャンバスにどうかサインを

きっとあなたは天国へ行くわ

なぞなぞ と聞かれたら 黙ってキスを

感情論を押しつけるように

くれてやるといいわ



むすめすまにすむすまに

こころここのところこころとこなし

みがきまきみがきまおあみがきまきか

やおよろずのひつじども かぞえてみれば

つきかげに 秋のもみじば なぞかけて




2018/11/15

1707.

カレイドスコープの深遠は
日常の不安 と 非日常の確からしさ
が 微動し生きている

時をとめて 吐いて 吸って
時計がまわって 赤 黄 緑 の再帰原理

夜ごとのきらめき と まぼろし
あなたのあかるい まなざし と
かなたのまるい しろ と くろの
まわるとけい としつきまわり
ぐるり とまわる ときとまる

やすらかな日常と さようなら
良い子にしてます また明日



2018/11/13

1706.

ちいさな葉が赤く燃え、下風で足もとが冷たい。暖かくあった最近の日も疾く忘れ去り、冬めく季節の吐息の先に黙って触れる。手の感触も頬の感触も乾いた土面のように冷たくなって、暖かいところを手さぐりしながら空を見上げる。さむくなると、この世は静かになる。雨の降りそうな曇り空の向こう、この世は陽のもとの夢を見ているだろうか。私もまた同じように、眠るよ。

来たる冬、人の心は侘しい風の旋律に忙しなく動く。そのあいだ、相変わらず橋の上ではヴァイオリン弾きがいて、ゆきかう心に静かな灯を燃やしています。

2018/11/11

1705.

髪を切った。美容室のアシスタントが服好きみたいで少し話をした。
教えてもらった店にいつか行ってみよう。
ファッションを詳しく知っているわけでないが、もし可能であればそれもひとつの楽しみにしたいと私は思う。私のなかにも関心の対象としてファッションが存在していて、できればそれを満たしたい。
そして、ファッション以外にそうしたものが実に限りなく存在している。が、すべてのものに触れることはできず、過ぎてゆくものや見過ごさねばならないものを目に焼きつけながら眠らねばならぬ。そう考えると、生きるのがつらい。
歌って踊って、喜んで悲しんで、会って別れるなどして、そのあいだに過ぎてゆくものに対して、日々を紛らして生きなければならぬ。そう考えると、今にも死んでみたいと思う。

もうひとつ、別の言葉で表現するとしよう。

あるひとつのものを手に取ると、別のものがその手から滑り落ちる。
それだから、人生、この世、即ちすべての愛おしきものを汲み尽くすことはできない。
私はだから、一切、すべて、即ちすべての愛おしきものをこれとして受けいれる。
私が手に取るひとつのものは、一切である。
そう考えると、いまひとつ生きてみようと思う。



語り語られることは様々でありながら 是れ即ち一切を表現し
手に取り取られるものは多様でありながら、是れ即ち一切であり
生き生かされるもそれとして受けいれる

過ぎるものなく
来たるものなし
有ることなく
無いことなし

ただ それを一切として 受けいれる



私の哲学は、
かつて誰かの語ったものであり、
いつか誰かの語るものであろうと思う。

私の哲学は、
かつて私の語ったものであり、
いつか私の語るものであろうと思う。


いつまでも欲しかったあの愛情が、
いつまでも欲求として生じるにせよ、
それをただ愛おしく思う。


一切を受けいれ、
そのうえで私は生きる。

一切を受けいれ、
そのうえで私は始発する。



愛とは
すべてを受け入れること

私は...頭がよくなくて...
嘘つきで...気弱で...
そんな私を受けいれること
決して離れてはならないこと
私は外見がよくなくて...
そんな私を受けいれること
決して離れてはならないこと
そして 私にそうするように
君にもそうすること
すべてのものに そうすること



「愛がなければ 無に等しい」





2018/11/10

1704.

誰もやっていないことをやれ、という助言は実は誰のためにもならないものに思える。人のためになる助言というのは、つまり誰もが求める助言というのは、誰にも当てはまる必要がある。が、誰もやっていないことをやれという助言は結局のところ、誰にも当てはまらないからだ。
ごく一部の人間に都合よく当てはまったとしても、いったいそれが何の助言になるだろう。
逆に誰もがやっていることをやれ、という助言も実はよくわからない。というのも、誰もがやっていることは助言を与えられた人もやっているはずだからである。
だから、退屈な結論が出るとしても、それが本当の結論なのだろう。つまり、君がやっていることで、誰もがやっていることをやるだけなのだ。

しかし、厄介なのは誰もがやっていることをどうやって知るのか、ということだ。
すべての人間を観察することはできない。
赤ん坊や小僧もそれに含まれるのか。
だがまた、それが人間を知るということなのだろう。

デカルトは 考える ゆえに我あり といった。

私が確信することは、人間は誰しも考えるということだ。
だから、デカルトに続く哲学者たちは私たちに 自分で考えろ といった。

私もまた 自分で考える
ただそれだけだ。文句あるか。

2018/11/08

1703.

手塚治虫が描く漫画のおもしろさのひとつで、ぼくがもっとも気に入っているものは、モブキャラや街中にあふれるエキストラの吹き出しだ。
物語とまったく関係しない人物や物の台詞はそれだけでは無駄に思えるが、実はそれらが画面全体で見たときの無駄のなさを演出している。

1702.

他者が抱いている私の像はどこまでも私から離れていて
私の抱いている私自身の像もなにかと都合良く出来上がっていて
きっと正しいのは それらのどちらかでもなく
できあがった私や君の影が大きいからといって
私や君自身が大きいと思わないことだ

こんなこと はるか昔から言われているのに

君が抱いた私の像が基準となって
私自身が疑われることを
他者の世界に従うよう強制されることを
私自身は嫌う
そのことを君は
知っているはずなのに

2018/11/07

1701.

ふたつの目標を達成した。
新しい表現方法をひとつ覚えた。新しいことをやってみると、思っていたのと違っていい。思考のなかでこしらえた塊が内側から破れていくのを実感する。既にあったものも、ぶちこわしたものを足すとより大きな力になる。とはいえ私はまだ白と黒しか見えないので、いつか豊かな色彩を描けたらいい。私はなにも絵のことだけを言うわけでなく、経験は可能な限り、どこまでも広がっていくのがいいと思う。

2018/10/21

1700.

一日一冊 本を読んでる
400ページ というわけにはいかない
学習書や論文 それから宿題の量
ぜんぶ重ねてもむずかしい
ときには文を読むのに苦労する
ときには雑音と雑念が起こる
草叢のように生い茂るので
いつしかあっちの方へ向かっている
草枕は独創的な夢をくれるから
根こそぎ刈りとることはしないけど

ことしのちいさな目標がある
ありきたりな三つだ
でもそれらはいまにこそ
わたしにひらかれていると思う

本を読むと
わたしの考えていたことを
同じく考えてる人がいたのだと知る
早いもの勝ちなどなく
わたしは透明な心もちで嬉しく思う
彼や彼女のエネルギーを
わたしはそこで吸収するからだ
エネルギーの暗号は
「さらにゆけ」
わたしは了解する
もっと遠くへ行きたいと思う
旅人の心地に似ている
ひらかれた大地をながめて
どこかで止まっちまうにしても
百千 万象の向こうへ行きたい


1699.

世の中には
正しいかそうでないか という問題があります
これはどう考えても 正解がありません
だから あなたがどちらを選ぼうがそれでいいのです
だから わたしはあなたの声を聞きませんでした

人間が自己中心主義なら そのような問題にも
正解がきっとあったことでしょう

正解のない道を歩むのは
まさに生死をさまようというもの

正解のない道を歩むからこそ
世の中は知を愛するのです


2018/10/08

1698.

俺の人生は自分で書いた文字を数えるだけの人生か
 一千万字は心臓の鼓動する限りを知るのか
俺はそれをつくりたい
何かこの世に残せるものを
自分の作品を
正しく美しいものを
ただそれだけのために生きている
ただそれだけがこの世に対する償いだ
俺は原罪なんて知らない
でも どうかして俺は自分を責めているのだ
ごめんなさい ごめんなさい
子どもの俺は泣いている
許してください 許してください
なにを?
俺はこの世の大切な何かを隠しています
そのために親も友人も周りのみんな 苦しんでいます
俺のために苦しんでいます
だから自分の心をえぐり 砕くのだ
だからこのペンをつかって 限りを尽くして
隠したものを取り出して もとにあったところへ ちゃんとかえしたい

2018/09/26

1697.

画面の中ではなにをやってもいいんだ。言葉よりもっと自由な世界。
 許された許された許された許された。きっと誰よりも自由なんです。ああ言葉なんていやね、こいつあちっとも自由じゃない。お好みの言葉ひとつで十分なのに、文法なんて要求しやがるえっとはい私の次はハですかガですかええじゃあ私じゃなくてボクにしますはいわかりましたいい子にしますいい子にします許してくださいボクの次はハですかガですかハじゃなくてワじゃないんですかわかりましたハでいいんですね先生は絵は好きですか嫌いですか理由はなんですかどんな絵が好きですか頭のなかは何がありますかリンゴですかボクはリンゴですええだめですか先生今日は雨ですか先生今日は不倫相手とエッチしないんですか先生今日は眠たいですあと五〇分寝ますだから放っておいてくださいいい子にしますいい子にします許してください黙って下さい許して許して許して許して.......

2018/09/23

1696.

今日は秋分の日です。明日は十五夜だそうですね。
スーパー トロピカル ど クソ つらい です。

2018/09/18

1695.

 小説を読みたくなった。なんでもいい、やさしくてしずかで、さみしくて、冷たい左胸に秋風のそよぐ、そんな小説だったら。
 私は宮沢賢治の春と修羅をよんだ。詩人はすごい。人間の心が、あるときにはどれだけグロテスクなものかを教えてくれる。ちょうど心臓をなまものとして見るように、人の心もミクロスコープで見ればたまらなく奇異に違いない。詩人は自分自身で開発した顕微鏡を使って、そんな心の諸相を教えてくれる。
 小説を読みたくなるとき、私は感傷に浸りたいと思う。そこで得られる空気が、私の血流を促進するからだ。

2018/09/09

1694.

  今日は早朝から雷雨がありました。目を開けて様子を見てると暗いままなのに、目をつむろうとすればピカッと光るのです。雨はそれからずっと降り続いていました。それで今日は太陽がいませんでした。
  大学がちょうど閉門時間となるころにひとりで道を歩いていました。自分の足音よりも大きな声は虫たちのそれでした。秋雨で冷たくなった夜風は肌ざわりが良いですね。さまたげるものが少ない場所で、アコースティックのやさしい音色を聴く心地です。歩いている森の向こうでは車道を走る車の音が聞こえました。救急車のサイレンがふたつ遠くで鳴れば、飛行機の音も聞こえました。人影もなく、100m先の建物から人の声がするだけです。 虫たちの合唱にさらなる虫の声音が加われば、私の感覚はまるで家に帰ってきたみたいにくつろぎました。大通りに出ると、濡れた道を車が列をなして走っていました。それから住宅の並んだ道へはいると、家という家からテレビを見る音がなっていました。
  私は今日、たくさんの音をひとりで受け取りました。私がどこか寂しい気持ちになったとき、ここから遠いところにいる人のことを思い出すようにしています。私はもっと人のために生きたいです。

2018/09/03

1693.

今日は大学前にひっそりと佇むお洒落な文房具屋さんに立ち寄った。初めましてのご来店。特に何をするでもなく、だけどある期待を抱きながら入った。ある期待、それは私が文房具店と聞けば探し求めずにはいられない特別の、そして幻の付箋がないかという期待なのだけれど、大きな文房具店を探しても大きな街の小さなお店を探しても見つからないその付箋が片田舎の小さな文房具店にあるはずもなく、それだから空蝉の期待でしかないのだ。しかし、私が抱くほんのわずかな希望が遍在する文房具屋さんのうちのひとつへ立ち寄らせたのだった。入ってみれば、お洒落な内装だった。商品もモダンな並びになっていた。じっと見て回っていると、店主と思しき方が声をかけてくれた。探し物がありましたら… パーマか地毛か分からなかったが、どこか見知った人に似ている外見の女性だった。ああ、かつての仕事場で一緒に働いていた劇団員のお姉さんに似ていると思った。あ、いや、別に探し物はないのだけれど、と言いながらも、私はほんのわずかな期待を吐いた。もちろん、あるわけがなかった。それでも、幻の付箋のことを説明しているうちに彼女がお店のことを話してくれ、逆に私からも尋ねてみるということがあった。そうこうしているうちに私はお店を見回り終えていた。気になるノートもあったが、今回はポストカードを買った。次に来店するときは、またおもしろいものが入ってるかもしれない。だから、また来ます、と言った。 どうしてか、すこぶる気分のいい昼間だったと思う。そういう時は、だれかと会って話したいと思うのだけれど。

2018/09/02

1692.

パソコンが壊れたから、せっかく作ったこれも盛んでない。直せばいいのだけれど、多くのことをなんとかなると思ってるふしがあって、そのために多くのことが野ざらしにされていて、世間をとても真面目に生きている人たちにとっては、なにか見てはいけないもの、親が子どもの目を伏せさせたくなるようなものが天の下で白目を向いているのだ。だから、直せばいいというのだけれど、それはむずかしいのだ。いま生きている社会が正しいと思うと、全く別の社会を判定するのはむずかしくなる。この社会では子を捨てるというのはそれがなんであれ法の裁きを受けるのだけれど、別の社会ではそういう風習がある。相対的な知見は今や何も珍しいことではない。 でも私はそんな大きなことを言っているのではない。私はもとより気ままに生きている人だから、多くのことがらに関心を待つけれど、ある時その糸がプツッと切れると、どうでもよくなったりする。ただそれだけのことで、その糸がいつ切れるかなんて分からないけれど、一応は必死に切れないように努めはするし、糸から伝わってくるものを忘れることはない、たぶん。むかしは気ままに生きていて、何でもかんでも忘れるもんだし、すべてがどうでもいいとか思っていたところがあったかもしれないけれど、そうではなかった。だから、それだけ私も気ままによく生きてきた、と言っていいんじゃないだろうか。 ちなみに私は相対的に解決していくことよりも、比類のないものに向かって解決するほうが好きだ。人それぞれだなんて、みんな知ってる。いろんな生き方があるだなんて、みんな知ってる。でもみんな、このままでいいなんて思ってはいない。いろんな生き方のもとで、より良く生きようとするのだ。だから私もまた、パソコンが壊れたままでいい、もうパソコンは使わないだなんて思うわけもなく、パソコンを起動させようと頑張ってみるかもしれない。ただ、それがいつになるのかは私には分からない。

2018/08/14

1691.

「野火」が再上映されるということで観てきた。血泥にまみれた人間と色鮮やかな自然のコントラストが印象的だった。死体の人形は手づくりであるがゆえにグロテスクだった。シュバンクマイエルのアニメのように、まるでそれに触れるような感覚を覚えた。触覚のざわつき。夜中の不自然な光の中で殺される緊張が自然と身体に染み込んでいた。いつのまにか前のめりになった自分がいた。 人間という存在は不思議だ。いつか書き上げたノートを取り出して、考えていたことを振り返ってみたが、他の人たちのように、私は多くのことがらを捨てながら生きているんだと思った。そして、互いに愛し合うことは可能なのか、私はまだ応えられないが、別の私であれば答えていたかもしれない。拡散されてしまった無数の自己がいつもあちこちを漂っていて、それらはみな、完璧主義者のように目をぐるぐるとまわしている。 ノートパソコンが一部故障した。この夏をめぐって、いろんなものがこわれていくのかもしれない。それでもすべてがこわれていくわけじゃない。いつもそうだ。でも、いつからなのだろう。

2018/08/08

1690.

直観は気紛れだ。たとえば何かを言っている傍で直観が働くときがよくある。あとで直観の影を追って言葉を紡ごうとしてもうまくできない。それがベースにあって私は何かを言うのか、私が言っていることがベースとなって直観が働くのか、わからない。それは線香花火のように短命であるから、多くは直観の生起を明確に意識する前に消えてしまうし、それと知られることがない。
かすかな残像だけが取り柄となって、それがどんなものか知らないながらも待望の好機を逃したような気分になる。片思いの女性がふと目の前を声かける間もなく通り過ぎたかのような気分を味わうのだ。それはもしや錯覚なのかもしれず、往々にして直観は間違っているということを思えば、その戯れに度々付き合わされているのかと自分自身を不憫に思ってもいい。
でも、直観が生じるのを私はいつも楽しみにしている。それがどんなに私から離れてしまおうとも。きっと風の通り道のように直観がそこを通るのが好きな道がある。子どもさながらにそこへ足繁く通って、直観が気紛れに生じるのを楽しみにしている。


2018/08/06

1689.

月の光をうけて誕生したような、懐のたそがれ。......富田勲の『月の光』を聴きながら、この世の向こう側を思い遣る時間。異端児として現われた電子音の戯れが美に浸透するまでの時間、それは宇宙誕生から現在までを内包しているのかしれない。宇宙に存在するとあるひとつの美をまるで時計職人のように表現した音楽家の創造力に感嘆する。時は来た、そのようなことがあり得たのかもしれない。潜在していた美がその姿態を露わにするためにシンセサイザーを待っていた。もしそうだとしたら、それもまた壮大な愛なのかもしれない。

2018/08/05

1688.

今日は喫茶会へ行ってきた。大学で関係のある人たちが集まって飲食しながら談義する会だ。パートナーの価値だとか相互理解の可能性だとか映画についてだとか、いくつかの話題が持ち上がった。テーブルを囲む人たちが話を展開していくのを、コーヒーとケーキを食べながら聴く。ときに頭のなかでアイデアが浮かびはするが、それを言葉にして声に出すのはどうしても困難だ。みんなが持ち前の言葉を費やす一方で、私は疑問を一つ投げかけるだけで精一杯、そんな具合だ。たくさん話した方がいいというのも分かるけれど、確かにたくさん話すための工夫がないかとこれまで考えてきたのだけれど、言葉を発するさいに相変わらず抵抗を感じる。キーボードのEnterキーはあるのに、まるで押しても作動しないような抵抗を。それだから、耳と目をつかって話を聴いていた。話を聴いていると、頭がぼうっとしてくる。頭の働きが遅々として話についていけないのかもしれない。私はまた、その場にいることの意味を考えなければならなかった。みんなと一緒に話のなかに入っていた、ただそれだけで、ただそれだけのことが十分に良いのだけれど。

2018/08/04

1687.

ある部分で見れば病的であるようなことが私のなかにも潜在している。例えば多動性、ロッキング、同一性の拘り、予定外のことに対する不快感や妄想といったものだ。自閉症とも結びつくことがらがドライアイスのけむりのように生活の深部で漂っている。自他平生の内部で渦巻く物之怪はまた別の病的なほどに強力な作用によって抑えられていると考えていいのかしれない。そうした別の作用は、例えば自分を守るために嘘をつくような場合に垣間見ることができる。それがどうであれ少なくとも、超現実なものどもの内的な共生に反して、いやむしろそれらの均衡に因って私の外見はかなり落ち着いているといっていい。(私は昔からおとなしいとか落ち着いていると言われてきた。)
 衝動性は一般に外見において顕著であるけれど、その効果が目に見えるとも限らないと思う。例えば私は次のことがらが苦手だ。予定があること。予定や計画を実行すること。他者の指示どおりになにかを行うこと。友人がこの日に映画を観ようと言ってくれたとして、私はその時点では特に何も思わない。というと嘘になる。やはり予定が決まるということは苦手なのだ。それとて断る理由もなければ、内容如何によっては観に行きたいとも思う。でもとうとう時が迫る頃になれば、嘘でもついて予定を破棄しようかと思うほど嫌気がさしたりする。心情の左様な過程をほとんどいつも辿っていて、このところ数年は無視していたつもりであったが、予定に対して嫌気を感じるのは衝動性を原因としているのかと気になった。もしそうであれば、自分で思っている以上に私は衝動的なのかもしれない。

2018/08/03

1686.

今日も外に出て朝の強い陽射しを浴びた。書籍の積み重なった重さを量るように身体が自然と機能した。日課はじめの調子が続いてほしいと思うのは曲のイントロを聴いて期待するのと同じなのかもしれない。でも結局、長続きしない。私の手にかかったものならどれも大きな海へ流れていく。ときどき、手や足が重たくなって動けなくなる。そうすると、どうしようもないのだ。生命のリズム、というわけではないけれど、人の生きる仕方にも律動があるんじゃないかと思うことがある。快い気分のあとには不快な気分に陥るのはわりと自然なことだと思っている。不快はそれ自体つらいことなのだけれど、そう思うと、快と不快に左右されるよりもきっと広い視野があらわれる。感情はそういう意味では確かに相対的なのだ。だからまた、不快を一切排除しようとするような或る快楽主義はその意図に反して生きづらいに違いない。

でも、快と不快といってもいろいろある気がする。他人があることを不快と思ったとき、それに対して不快な気分を受けいれることを私はその人に提案するだろうか。私の答えはYESだ。不快な感情の受容はそれを引き起こした行為や出来事の受容とは異なっているからだ。

2018/08/02

1685.

私はなぜ生まれたのだろう。