2018/11/20

1709.

バスの窓の外を眺めると、県庁前の公園は紅葉が盛んだった。そこだけ黄色の空間で、じっと見つめることはなかったが綺麗だと思った。
つい最近、和洋混合となった庭園の薔薇を友人が写真に撮って送ってくれた。その庭園は以前私の住んでいた家からすぐ近くにあった。数百円程度の年間パスポートを購入して、休みの日などは足繁く通っていた。薔薇園をのぞむ洋館があって、よく撮れた写真があればそれを写生した。朝に来て散歩したりベンチに座って本を読むなどして憩う人もある。私もたびたびその一人となって、秋や春などは特別の音楽に耳を傾けながら平静なる心地になった。秋は詩情豊かな季節で、その生起はささやかだ。
庭園の写真を見ながらむかしのことを思い出したが、「思い出」は紅葉の葉っぱのようだ。それはたんに記憶されたものでなしに、情感のともなう記憶であって、その生起はもの静かだ。

紅葉が特に映えるのは建物や事物と一緒の構図に組み込まれたときで、それは「変移」の強調といわれる。歴史的な建造物が紅葉の衣装に包まれるとき、風が吹き、人は歴史の移り変わりを知る。私たちが変わらぬものと信じた諸々が、そうではないかもしれないとふと思われる。他方、移り変わりのなかにあって残存するものが知られる。そこに私たちは現在を見るかもしれない。

“歴史のゆえに現在がある”
と人はいう。これは真理なのかもしれない。現在とは消極的なもので、積極的なものはつねに変移に呑み込まれる。変移の時代というのは積極的なもので溢れている。それゆえ、「ダイナミックな」と形容される。現代はどうだろうか。もはやロマンは信じるに値しないとか抱くだけ無駄だと人々が言うにしても、次のことは信じてもいいと私は思う。もし私たちが永遠の愛を誓うならば、私たちは永遠の愛を誓うべきではない、と。