誰もやっていないことをやれ、という助言は実は誰のためにもならないものに思える。人のためになる助言というのは、つまり誰もが求める助言というのは、誰にも当てはまる必要がある。が、誰もやっていないことをやれという助言は結局のところ、誰にも当てはまらないからだ。
ごく一部の人間に都合よく当てはまったとしても、いったいそれが何の助言になるだろう。
逆に誰もがやっていることをやれ、という助言も実はよくわからない。というのも、誰もがやっていることは助言を与えられた人もやっているはずだからである。
だから、退屈な結論が出るとしても、それが本当の結論なのだろう。つまり、君がやっていることで、誰もがやっていることをやるだけなのだ。
しかし、厄介なのは誰もがやっていることをどうやって知るのか、ということだ。
すべての人間を観察することはできない。
赤ん坊や小僧もそれに含まれるのか。
だがまた、それが人間を知るということなのだろう。
デカルトは 考える ゆえに我あり といった。
私が確信することは、人間は誰しも考えるということだ。
だから、デカルトに続く哲学者たちは私たちに 自分で考えろ といった。
私もまた 自分で考える
ただそれだけだ。文句あるか。