2018/08/08

1690.

直観は気紛れだ。たとえば何かを言っている傍で直観が働くときがよくある。あとで直観の影を追って言葉を紡ごうとしてもうまくできない。それがベースにあって私は何かを言うのか、私が言っていることがベースとなって直観が働くのか、わからない。それは線香花火のように短命であるから、多くは直観の生起を明確に意識する前に消えてしまうし、それと知られることがない。
かすかな残像だけが取り柄となって、それがどんなものか知らないながらも待望の好機を逃したような気分になる。片思いの女性がふと目の前を声かける間もなく通り過ぎたかのような気分を味わうのだ。それはもしや錯覚なのかもしれず、往々にして直観は間違っているということを思えば、その戯れに度々付き合わされているのかと自分自身を不憫に思ってもいい。
でも、直観が生じるのを私はいつも楽しみにしている。それがどんなに私から離れてしまおうとも。きっと風の通り道のように直観がそこを通るのが好きな道がある。子どもさながらにそこへ足繁く通って、直観が気紛れに生じるのを楽しみにしている。