2018/08/03

1686.

今日も外に出て朝の強い陽射しを浴びた。書籍の積み重なった重さを量るように身体が自然と機能した。日課はじめの調子が続いてほしいと思うのは曲のイントロを聴いて期待するのと同じなのかもしれない。でも結局、長続きしない。私の手にかかったものならどれも大きな海へ流れていく。ときどき、手や足が重たくなって動けなくなる。そうすると、どうしようもないのだ。生命のリズム、というわけではないけれど、人の生きる仕方にも律動があるんじゃないかと思うことがある。快い気分のあとには不快な気分に陥るのはわりと自然なことだと思っている。不快はそれ自体つらいことなのだけれど、そう思うと、快と不快に左右されるよりもきっと広い視野があらわれる。感情はそういう意味では確かに相対的なのだ。だからまた、不快を一切排除しようとするような或る快楽主義はその意図に反して生きづらいに違いない。

でも、快と不快といってもいろいろある気がする。他人があることを不快と思ったとき、それに対して不快な気分を受けいれることを私はその人に提案するだろうか。私の答えはYESだ。不快な感情の受容はそれを引き起こした行為や出来事の受容とは異なっているからだ。