梢のさき、ひとつ、またひとつ。ふりそそぐ光が、どこまでも重なっていく。根元に芽が出て、光がおちる。春だから、といって。
...。
春の、只中にいた。
ただ、生きていた。

ちょっと前までお散歩ソングをのんびり聴いていたのに、いまでは全然違う曲を聴いている。あるときここは音楽の大海原で、海流にのってさまざまな音色に漂着するのが心地良い。飽きるとかそういうのではなくて、追い風が吹くように、背中を後押しして音楽をさまざまに聴かせてくれる。
音楽は描画にも影響を与えるので、自然とわたしの絵は雰囲気を変える、ような気さえする。
海流にのっていく。
クラシック、ポップス、ロック、民謡、電子音楽、現代音楽、多様な分野を経て、果たしてたどり着くところが結局は馴染みのあるところなのも、音楽っておもしろい。
感性の向かうところ、まるで地平線の先があるかのように、まるで球体であるかのように、めぐりめぐって戻ってくる。

ニューヨークに住む91歳の画家のショートドキュメンタリーを観た。かっこいいなぁ。
そこまで長くは生きそうにもないけれど、わたしもこういう風に歳をとりたいな、と思う。年老いてなお、筆の行き先を探りながらも楽しいと思って絵を描いていたい。知見と経験を広げ、深めていく、そういうささやかな期待とともに描いて生きる。
わたしにとって心のポジティブとはどんなに深く闇に沈んでいても、そこに一筋の光を見ようとする人間の意志だ。
どんな失敗も、どれほど下手くそでも、死に至るものでなければ、それが未来の糧となればいい。
ときには億劫になる。見知らぬ場所へ行くのが怖くて引き返そうとするかもしれない。でも「今日一日だけチャンスをあげよう」と階段を上ってみようとする意志を決して見失わないように、生きていたいな。

何があったというわけでもないが休日前の勤務でどっと疲れたので、休日はのんびりと過ごすことにした。
午前を寝惚け眼で過ごしつつも、洗濯物を干したりご飯を炊いたり映画を観た。午後からお出かけ。玄関扉に差し込む春の日射がきれい。これまで食べたなかで最高級に美味しいクッキーを買いに焼菓子屋カルフへ歩いて行った。お店に着くと小さなお店に幾人かいて、お店のなかには入ったがゆっくりはしなかった。以前から食べたかったカカオのクッキー。これは帰ってからのことだが、食べてみたらとても美味しかった。それからレモンケーキもね。このお店のクッキーはどれも本当に美味しいので、こんど贈り物にしようかな、なんて。こぢんまりとした町の小さなお店はおよそ平日は閉めていることもあるから、平日にお店が開いているのはありがたいことだと思った。
クッキーを買い、しばらく喫茶で時間を過ごす。コンクリートの質感が剥き出しの今風な店内には、厨房を囲むカウンターとテーブル席がいくつか。春の彩りを思わせる野菜とレモンクリームのソース、そして白味噌の乗ったサーモン。今日の定食は、ひと口ごとに気持ちが解けていくような味がした。BGMには大橋トリオと手嶌葵の「真夜中のメリーゴーランド」が流れている。うん、うん、おいしい。咀嚼とともに、夜の静かな充足を噛み締めた。
よく食べたので、はじめてひとりで「はしご」なんていうものをやってみる。気になっていたポルトガル料理のお店へ。お酒だけでもだいじょうぶですか、とひとこと断りお店へ入るとお爺さんが一人だけ本を読んでいる世界にひとりお邪魔する。壁面にはさまざまな絵が飾られていた。
カイピリーニャという甘いカクテルを注文した。お腹もいっぱいだったおかげで、頭を打つような痛みも間接の痛みもなく、なにより驚くほど容易に喉を通った。最近は焼酎のロックも試してみたが、身体の反応は相変わらず鈍くとも、それでも素直に「おいしい」と思えるくらいには、味覚も大人になったらしい。お酒なんて、と思っていた子供の頃をふと思い出した。

はぁ、いいなぁ。はしごなんてやって。
年に数回あるかないかの一日かもしれないけれど、こういう日もなかなか楽しい。なによりも、美味しかったな。
おやすみなさい。
いま、大きなサイズのキャンバスに油彩絵具で絵を描いている。
大きなサイズとはいっても木炭紙とほとんど変わらないF15キャンバス。
大きなキャンバスに絵を描きたいと思って選んだものの、実は木炭紙と変わらないと知って、たしかに大きいが、まだ先は遥かにあるなと思った。
それでも、今までF6までしか描いてこなかった自分にとっては、ひとつの目標であったことは確かなので、完成が楽しみだ。
さて、実際に描いてみると、確かに画面が大きいのでさまざまな要素を入れ込むことができて楽しくも大変だ。F100になれば、なにか描きたいものや思いがあっても、キャンバスの目の前に立つと何を描けばいいのだろうという気持ちになるだろうか。
楽しさは限りなく、わたしは描きながら着想して、イメージを付け加えてみたり、試してみたりする(正直に言うと、描くまでに構想はぼんやりとしかなかった)。
テーマは構図。
構図という極めてクラシカルで基本的な観点を今なお追究する手前、その構図と意味を色を重ねるように着想を重ねて、多層構図をつくりたい。
できるかな。やってみよう。
デッサン#5はあばたのヴィーナス、ヒュギエイア首像。

またデッサン#6は雉を描いた。

2つの私的テーマは明暗の階調だった。最も暗いところ、暗いところ、中間調、明るいところ、最も明るいところ。
これまで、臆病さのために明暗の階調が曖昧だったから平坦だった。
今回、それがうまくいったかは分からないけれど、5つの階調を使って少なくとも大胆に描き込めたのはよかったかな、と。
それから雉は羽根の色彩を表現するのがむずかしかったが、遠近を意識して描けたところ、首像は比率が正確でなかったが、以前よりも面を意識して描けたと思う。
次はより面でとらえられたらいいな。
朝の通勤は自転車に乗って行くのだが、駐輪場に行くと自転車がなかった。別の場所か、駐輪場の外かと思ったが、どこを探してもない。管理人が動かしたりしていないかと隣の駐輪場を見回ったが自転車は見つからなかった。
あぁ、盗られたかもしれないと思った。
近所でも警察が自転車盗難防止の活動をよく行っているので、そう思うのも自然だと思った。
盗られたかぁ。
通勤時間もあったので我ながら思いのほかの冷静さを保って、別の通勤手段としてバスに乗るべく、近所のバス停へ向かった。
大学図書館で傘がなくなったり、大学のトイレに携帯を置き忘れて戻ったら何もなかったときに比べると、あまりショックを受けている様子でないのが不思議だった。
バス停へ行く途中に大きなスーパーがあり、それを横切りながら、そういえば帰宅前に寄って、昨日買い物したなぁと思い出した。スーパーの駐輪場のほうをなんとなく見ると、
なんと自分の自転車が。
半信半疑で近づいてみると、カゴに入ったミントグリーンの合羽がある。たしかに自分の自転車だ。
よかった。
と思ってひと安心すると同時に、昨日スーパーで買い物したあと、「自転車忘れて歩いて帰ったのかよ」と自分にツッコミを入れて自転車に乗った。
なぁんだ。
春の日差しが気持ちよかった。
職場で息を吐くようにお辞儀をしてお礼をいうお客様に会った。
「お世話になっております。」とわたしたちは言い合い、
「この度はありがとうございました。」と言う。
わたしもこちらこそありがとうございましたと言う。そしたら半歩下がって、また「ありがとうございました。」と言われ、わたしも同じようにいう。2回、3回は至って普通のやりとりであるが、たぶんそのあと20回くらい言い合ったと思う。
お互い、他愛もなく雑談することなく、世間話する間柄でもないので、間を埋めるように「ありがとうございました」と言い合っていたのがおかしくて、あまりに息を吐くように言うもんだから、なにかこう言葉をはさむ余地もなく、ただただ言い合いながらも心のなかで「いつ終わるんだろう」と思っていた。(向こうもそう思っていたかもしれない)
結局、後退りして距離が大きくなったところでフィナーレ。
静寂が訪れたのでまた、おかしくて一人で笑ってしまった。
杉並区にある本屋titleの2階で花松あゆみさんの展示が開かれていた。
わたしは別の目的で本屋に入ったが、その目標物に今日はたどり着けないと認め、本棚をじっくり見ることにした。ひと通り眺め終わり、花松さんの作品が展示されているギャラリーまで階段を上がった。
花松さんの作品のなかで「たぶん満月」という作品タイトルが印象的だった。作品を見てタイトルが印象に残ったというのもなんだかそぐわないけれど、あ、いいな、と思った。
わたしは仕事から帰る途中、月の光を好んで探したり、ふと見上げた夜空に月を見つけてうれしくなったりする。たとえ丸くて大きな月が見えても、たしかにその場で満月だと言い切れる自信はなく、かといってどうみてもまんまるなので、わあ、満月かなぁ、きれいと思いながら、月のカレンダーを調べてみたりする。
そうだよね、満月ってはっきりとは言い切れないなぁと、本屋を出て帰宅中にずっと考えていた。
むかしのひとはすごいなって。
Googleで検索もできない時代、夜空に漂う月を見ながら今日は満月だ、なんて思っていたのだろうか。
でも、むかしのひとも「今日は満月かなぁ、たぶん。」なんて、言っていたかもしれないな。
むかしは尖った言葉遣いだったのも、年のまにまに丸くなり、だからいってその個性がはがれ落ちるわけでなく、むしろ洗練されたような感さえ漂い、ひとつの真円のような文体をつくりあげる。わたしは川辺で転げまわる石ころに思いを馳せた。自然のなりゆきは美しい。

今夜の風は特別に心地よい。寝静まった夜に暖かい土の匂いが、春の匂いが南から運ばれている。
篠田桃紅さんの作品が所蔵・展示してある岐阜の現代美術館GICOMAに先日、訪問した。
亡くなられたのは3年前か。
はじめて知ったときはすでに100歳を越えていらしたが、それでも活気のある様子だったので、芸術家は早死するというわたしの臆見をきれいに容易く打ち砕いた。そしてなにより作品が凄まじかった。こういう人になりたいなぁとおこがましくも憧れる存在だった。
もちろんいまでも、それは変わりない。
だけど亡くなられて、いまはさびしい。
わたしの書は世のうつりかわりに対する、無常に対する惜しみ方だと、そのようなことを桃紅さんは言っていたが、惜しみ方という言葉遣いがすてきだと思った。
そして、わたしは名残惜しいという別のことばを重ねて浮かばせた。名残惜しくて描いています、わたしにとって、それもいいなと思った。
むかしのことを話したり、話していると、記憶が活性化されて、季節をめぐり、いまは冬の冷たい土をかぶったたくさんのことがあふれるみたいに思い出されて、それはまだなにも知らない、前だけしか見ていないような年ごろにはきっとわからないような体験なのかもしれないと、そのあとで日常的で些細なことを何気なく済ませていくうちに、そのたびにまたむかしのことが思い出されて、ふと気付かされる。
先々週の雪の日に手袋を片方なくしてしまった。その前の日にもう1組の手袋を片方なくしてすぐだったので気が滅入った。なんならワイヤレスイヤホンの片方もつい最近なくしてしまったし、もう1組のワイヤレスイヤホンの片方も壊れてしまった。
そういうわけで、いま手元にあるのが片割れの寄せ集めとなった。
片方をそれぞれ付ければ遊戯王でいうエグゾディアのような、とはいえ統一感のない、ポンコツロボットみたいな風体だ。もちろん、異なる手袋を片方ずつ付けるのはなんだか野暮ったいし、異なるイヤホンを片耳に付けるなんてこともできない。
とりわけは、お気に入りの手袋がなくなったのがかなしい。
もうだいぶ前の日のことなのに。
でも、ふと思ったことがあって。
寒さを防ぐことはもちろんいいのだけれど、寒さに耐える日もあっていいかしれない。
手袋やニット帽だけでなく、いまではヒートテックまで流通し、とても過ごしやすくなったにちがいないのだけれど、寒いと感じるから着るというよりも冬だからとか寒そうだから着るという風に少しずつ変わり慣れ、空気の寒さをなかなか感じられなくなったような、そんなことをふと思ってしまった。
慣れということでいえば、もっと深くまで考えられそうなのだけれど、今日はこの辺で消灯。
あぁ、さむいさむい。
そう言って、お布団に包まる就寝もきっといいよね。

洗濯物をしまおうとカーテンを開けると都内のビル群の端で妙に赤茶色の月が雲に隠れようとしていた。明日からひどく冷え込むらしかった。
カメラを持って、屋外スリッパに足指をひっかけてベランダへ出る。めずらしい月の姿に向かって手ぶれに構わずシャッターを切って、切って、何度も切った。
部屋に戻り、ソファに深く座って撮影した画像の具合を確認する。ぼんやりしていたり、光を入れすぎていたり、なかなかうまく撮れていなかった。
そんなもんよなと思い、カメラを脇に置いて飲みかけの温めた牛乳を飲む。外の冷えが足先だけに残っていた。

哲学と進歩について語るすべての人が忘れていることは、Emanuel Kantによる認識論のコペルニクス的転回をわたしたちはまだ乗り越えていないということだ。
一体全体いつまで、人々は「その赤いリンゴ」というのだろう。リンゴは赤く見えているだけなのに。
でも、この疑問はわたしたち人間に宿る定めなのだ。
つい最近、お散歩ソングを新たに見つけてよく聴いている。いまの時間感覚に馴染んで、いまの街の空気に似合って気が抜けて心地よい。
世の中の限りない音楽のなかで、お散歩するのにちょうどいい曲というのがあって、それはもしかしたらその人の歩く速さに依存するのかもしれないと思う。アンダンテ 「歩くような速さで」のテンポは、もちろん人によってちがうのだけれど、場所や状況、気分によっても変わる。なんだかうれしいとき、さびしいとき、むなしいとき、たのしいとき、それから渋谷を歩くとき、上野を歩くときだって、あ、これだなぁっていう曲がある。公園、帰り道、通勤路、太平洋の海辺を歩くとき、日本海の海岸を歩くとき、山や川沿いだったり、冬だったり夏だったり、ね。
まるで、レコードをゼンマイ代わりにまわして動く人形みたい。
そのときのお散歩ソングが時間とともによく耳に心に馴染んで、いつしかいろんなこと、いろんな人間を思い出させもする。
その木漏れ日のような束の間が、さまざまなものが紛れは埋もれて混雑した街の最中では、一等に尊い。
地下鉄の改札を通ろうとすると、向かいから改札を出る人々がやってくる。向かい側から歩いてくる人が、ふとある人に見えたと同時にその人のことが思い出され、そしてあの人ではぜったいにないんだと確信する。
ある人とは、上京してはじめて知り合った、女性だか男性だかわからない年上の人で、なにをしているのかわからない、いつまでも得体の知れなかったが、それでもわたしのコトバをよくよく褒めてくれたし、となりで胡座をかいていたアメリカ人のきれいな女性に恋している風だった。わたしはその人のご縁で素敵な女優さんに自分で綴った文を朗読してもらったり、音楽もつけてもらって、人生有り難い、今でも忘れられないひとときで、今でも忘れられない、忘れたくない人だった。
忘れられないから、こうして背格好の似ている人を見つけて、あっ、と思ったりするのだろうか。そして、元気にしていますか、って。コトバを綴りましたよ、絵を描きましたよ、って。言いたくて、どうしようもなくなる。
まだ見てくれていますか、いまなにをしていますか、って。
話したくて、地下鉄の天井を見てしまう。