2021/08/31

1781.

夏の夜を照らした月が晦の先へ寝入るころ
秋風がほんのりわずかに吹きはじめる
あの人肌を焦がした炎暑の気配も
蝉が鳴きやむのにしたがって消失する
夕暮れどき 空に鮮やか紅のヴェール
散らばった細い雲を包み込んで溶ける
私たちの心
打ち解けたかな
八月のかき氷が時の迅流に耐えて残っている
もう少し もう少し
ゆっくり 深く呼吸を続けながら
紅色の手でそっと触れ合いながら
秋を迎えよう

2021/08/30

1780.

昨日は夕方に散歩した。午後6時は蝉が鳴いて夏の気配があったが午後7時には秋の風が吹いていた。
今日は気が落ち着いている。夏の終わり、憂の状態だと思う。心の眼があるそこは、仄暗くて静かで、落ち着いていて、少し冷たい空気があって、いくらか心地良いとさえ思う。死ということばがいつもより近く、だから心にそのことばがよく浮かぶ。きっと私はこういう冷めた世界が好きなんだなと思う。見渡せば世界はいつだって火焔が海や空気をたぎらせ、人の心は渦を巻いて。だから私は死というエネルギーを失った世界を夢見ながら瞑目して深く沈む。静かに、心地よく。

2021/08/27

1779.

主体性がないと自分で自分をいう若い人によく出会う。自分の意見を持たず、自分で考え決断することがない、自分から他の人に頼みごとをすることもなく、相手の顔を伺い、仕事に従って、なにか趣味に没頭するわけでもなく、生きている。地方に限らず、都会でもそういう人に出会ったことがある。いずれの割合が多いか分からないけれど、女性的なひとに多いと思う、おだやかで、羽毛のようなやさしい印象を与える、そういう人。

主体性がないという人は、自分に自信がないのだと思う。相手の気持ちに心配りしすぎているのだと思う。自分自身の声をすなおに聞いていない、聞けていないのかもしれない。

私は、主体性のない人という特徴づけは洗練されていない認識だと思う。少なくとも20歳を越えているような人間で主体性のない人間はいない。誰しも、主体性をもっている、というのが私の考えだ。私だってときに主体性のない行動をする。だけど、私は主体性のない人ではありえない。


おだやかで、羽毛のようなやさしい印象を与える、そういう人でさえ、かならず心のなかで声が聞こえる。それを本音というのは俗だけど、良心というのも硬すぎる、心のなかの声、自分の気持ち。きっとそういうものをどんな人でも持っている。主体性がないという人は、自分の気持ちをなかなかすなおに受け入れられていないのだと思う。それがどんな些細な声であっても、自分自身の心の声を聞くこと、そしてそれに正直に応えること、そうして人は主体的に行動することができる。

2021/08/19

1778.

ー 哲学の基本的な要請

前世紀、哲学は傲慢と批難された。哲学は人間の思索の世界と現実の日常的な世界の乖離を確実なものとしてしまったからだという。そこから哲学は、確かに日常やいわゆる経験世界との接点を追求することになった。しかし、哲学者は哲学的概念の生成を哲学者個々の感性に委ねることによって哲学を裏切ったといってよい。哲学は、改めて考え直されるべきである。


思考の世界、観念の世界と経験世界、外界とを結びつけるものは人間の脳である。外界から得た感覚及び認知情報を脳が処理することで、思考の世界が現象するという事実に注意しなければならない。このことを理解しなければ、いつまで経っても哲学は無益な概念を生成し続けることになる。観念の世界に広がりはない、もちろん始まりも。哲学や思想は客観的(物理的)に見れば人間の脳で生じる一つの事象に過ぎない。観念の世界に外界に適用すべき概念を用いるべきではない。これらは基本的な哲学の要請である。私たちは事実と向き合うべきである。なぜ、わけの分からないことを考え、無益な概念を生み出し、自らもそのことを認め、それが哲学だから仕方がないなどと嘯くのか。


哲学は常に理解できなければならないと私は思う。それは、哲学は常に解釈できるものでなければならないというのとは全く異なる。わけの分からないことを考えるということは、理解できないことを考えるということであり、それはただただ矛盾であるが、自分自身の知性の原則を無視していることにほかならない。哲学は、刻一刻と洗練される認識に対して、最適な概念(新しい概念の名前ではない)を生み出すことを要請する。

2021/08/18

1777.

 あるタレントの差別発言が問題となっている。それは端的にいうと、自分にとって猫の命はホームレスや生活保護受給者よりも大事なものであるということ、そしてホームレスたちの命はそれに比べて軽いというものである。このような発言が差別的であると指摘され、インターネット上で騒動になった。この騒動に対して、当事者のタレントは謝罪と反論を行なったが、それによれば、どんな綺麗事を並べ立てても命には主観的で相対的な優劣があるという、そしてその価値基準に照らすと、猫の命はホームレスよりも大事であるという。そして、批難者の誰よりも、自分はホームレスや生活保護受給者に対して貢献を行なっている割合が高い。それゆえ、批難者の綺麗事は説得力に欠けるというわけだ。


現代社会において、多くは相対主義に依って判断しているように見える。価値観は相対的であり、人それぞれであるという考えが主流である。一方で、今回の問題のようにある一人の思考について、間違っていると指摘できるのは価値の相対性に基づいているのではあり得ない。なぜなら、ある命題は間違っているか正しいかのいずれかだからである。それが間違っているという指摘は、より間違っているとかより正しいということを一切含意しない。


あるタレントの発言は命を相対的価値観のもとで捉えていると考えてよい。価値観は人それぞれであるということ、そしてそれに基づくと自分にとって猫の生命はある社会的地位の人間ーホームレスや生活保護受給者ーよりも大切であるのだ。しかし多くの人間は人間の、その個々の命をなにものにも代え難いものとみなしている、すなわち人間の命に絶対的価値を与えている。誰であれ、いかなる人の命をも犯すべからず、といわれる。そうしてみると、この騒動は人間の命が相対的価値か絶対的価値かという問題として捉えることができる。ならば、自ずと答えが見えてくる(と私は思っている)。



当のタレントは猫の命が大切であることを説明するために、その比較対象としてホームレスや生活保護受給者を持ち出すべきでなかった。自分にとって、猫の命は大切であるというだけならば、誰もが理解しうる。身近な人間の命を他の誰よりも優先するという考えも理解できるだろう。しかし、ホームレスや生活保護受給者の命は軽いという判断は全く必要なかったのである。一方の命が重いという理由で、一方の命が軽いとはならない。それが人間の命が絶対的価値であるということの意味でもある。仮に私が災害に遭い、多くの被災者のなかで奇跡的に家族だけ助けることができたとしても、私は救うことができなかった多くの命に対して申し訳なく思うだろう。なぜなら、いかなる人間の命も大切だからである。



ところで、当のタレントの思考の錯誤についてこれ以上、指摘する意味はないだろう。ましてや憶測に基づくだけの批難など無益。彼の築いたキャリアをこの束の間の誤りのために台無しにする理由はいかなる人間も持っていない、と私は思うのだが。

2021/08/13

1776.

女性の結婚に対する意識について。ある人の身の周り、特に長年付き合ってきた友人や親戚が結婚し子供を授かっている場合、その人は肩身の狭さ、寂しさ、あるいは焦りを感じる。このことは、多くの女性が経験しているのではないか。当の友人や親戚も、それを経験したからこそ決断したのかもしれない。女性が感じる肩身の狭さ、寂しさ、焦りをどのように解釈し、どのようにそれを乗り越えるべきか。
昨夜、友人が話してくれたこうした感情を生真面目に今日も考える。

考えごとをノートにいつも手書きしているが、最近はパソコンを使う頻度が高いこともあって、パソコンに移行しようかと悩んでいる。パソコンを使えば、ここに反映することもできる。しかし、今日はノートに書く。

2021/08/10

1775.

「被曝体験者、首相挨拶に怒り」という記事を読んだ。
平和祈念式典での首相のスピーチや姿勢に対する批難は大なり小なり毎年の如くに起こるものであるけれど、今年の菅首相のスピーチは批難の声が大きかった。それは原稿の読み飛ばし問題に追随する形で世間を響かせていった。読み飛ばしに関しては意識の問題ではなく、原稿が「読めなかった」という可能の問題であったという弁明が聞こえる。
しかし、被曝体験者が怒っているのはそのことではない。私たちが批難するのはそのことだけではない。スピーチにおいて、首相の意図や思いが全く伝わってこなかった、このことが問題の本当である。私たちは国民の代表である首相のあの大切な任務遂行に、はっきりと不快を覚えてしまった。人前に立ち原稿を読む、そのむずかしさを私たちも理解する、首相も人間である、人間であるならそれなりの気持ちをもっている、ましてや国民の代表である首相ならなおさら大きな気持ちをもっているにちがいない、そうでなければどのようにして私たち国民を内閣の描くより良き社会に導くのかわからない。なにひとつ気持ちがないのであれば、内閣のふさわしい人間に任せたほうがいい。すこしでも気持ちがあるのであれば、それを伝えようとして欲しい。
原稿というのは自分の意図に最も相応しい言語表現をするためにこそ、用意されていなければならない。だから原稿を読むことは決しておかしなことではない。ただ、それだけで思いは伝わらない。政治家を志す人間なら誰もが知っているはずの演説の技術を忘れてしまったのだろうか、それとも、だれもそれを知らないのだろうか。

スピーチにおける姿勢を批難されるのは、現内閣総理大臣に限った話ではない。私はまだ四半世紀ちょっとしか生きていない人間だが、首相のスピーチで気持ちが伝わったと感じたことは未だかつてない。首相だけではない、街頭演説をする政治家もみな、ただただ声を大きく張り上げ、なまえを繰り返しているだけのように見える。なるほど、彼らは務めを果たしているのだ。これは日本政治家への道、その道を真面目にすすむ、そうしなければ、選挙に勝てない。政治ができないのだ。いや、私たちは思う。いまの政治家になるための道に違和感を覚えない人間が果たしてこの先、日本社会、国際社会のしくみをよりよくできるのだろうか。

2021/08/09

1774.

 風荒ぶ、雨の匂いを市街によせて、息絶えた蝉や蜻蛉を転がす。私は背筋を伸ばして歩く。風をきる、夏の歩道が天に向かって延びている。風が懐に刺すその刃は露ほどのぬくもりを奪っていった。空洞の在処を確かめた手にだけわずかに残った燃殻もほどなく消える。

2021/08/08

1773.

炎暑の蝉が生を尽くして合唱する。積乱雲のいかめしい、思いを深く秘めた複雑な表情、空は鮮明に青々として輝いて。指に張り付く蟷螂と徒らに過ごした夢がよみがえる。栄えるものはいずれも朽ちる、生きた証を台風が持ち去ろうと、東の空を灰色に闇雲で染めてゆく。栄えるものは朽ち、ことばは若々しい色味を失うが、その心根は土塊の奥に沈みながらもなお、深く呼吸し続ける。

2021/08/02

1772.

わたしは戻ってきた。
戻ろうと思う。
戻りたい。
きっと、ことばのために。
ことばはいのちのために。

取り戻すもの、捨て去るもの、あたらしく変えてゆくもの、まるですべてが散らかった部屋のような心が、自分の居場所を知らせる極めて単純なものを見つけたのだ。

わたしの場合、環境の変化は獲得と消失の過程でなく、単なる揺らぎにすぎなかった。それは感情の揺らぎに似て、かならず、落ち着く時点がある。それはわたしにとって、ことばと絵と音楽に満たされた生活、その奥深いところで、思索が忙しなく鼓動する生活だ。