2026/03/16

1820.

​デッサン#5はあばたのヴィーナス、ヒュギエイア首像。


またデッサン#6は雉を描いた。



2つの私的テーマは明暗の階調だった。最も暗いところ、暗いところ、中間調、明るいところ、最も明るいところ。

これまで、臆病さのために明暗の階調が曖昧だったから平坦だった。

今回、それがうまくいったかは分からないけれど、5つの階調を使って少なくとも大胆に描き込めたのはよかったかな、と。

それから雉は羽根の色彩を表現するのがむずかしかったが、遠近を意識して描けたところ、首像は比率が正確でなかったが、以前よりも面を意識して描けたと思う。

次はより面でとらえられたらいいな。

2026/03/10

1819.

​朝の通勤は自転車に乗って行くのだが、駐輪場に行くと自転車がなかった。別の場所か、駐輪場の外かと思ったが、どこを探してもない。管理人が動かしたりしていないかと隣の駐輪場を見回ったが自転車は見つからなかった。

あぁ、盗られたかもしれないと思った。

近所でも警察が自転車盗難防止の活動をよく行っているので、そう思うのも自然だと思った。

盗られたかぁ。

通勤時間もあったので我ながら思いのほかの冷静さを保って、別の通勤手段としてバスに乗るべく、近所のバス停へ向かった。

大学図書館で傘がなくなったり、大学のトイレに携帯を置き忘れて戻ったら何もなかったときに比べると、あまりショックを受けている様子でないのが不思議だった。

バス停へ行く途中に大きなスーパーがあり、それを横切りながら、そういえば帰宅前に寄って、昨日買い物したなぁと思い出した。スーパーの駐輪場のほうをなんとなく見ると、

なんと自分の自転車が。

半信半疑で近づいてみると、カゴに入ったミントグリーンの合羽がある。たしかに自分の自転車だ。

よかった。

と思ってひと安心すると同時に、昨日スーパーで買い物したあと、「自転車忘れて歩いて帰ったのかよ」と自分にツッコミを入れて自転車に乗った。

なぁんだ。

春の日差しが気持ちよかった。

2026/03/09

1818.

​職場で息を吐くようにお辞儀をしてお礼をいうお客様に会った。

「お世話になっております。」とわたしたちは言い合い、

「この度はありがとうございました。」と言う。

わたしもこちらこそありがとうございましたと言う。そしたら半歩下がって、また「ありがとうございました。」と言われ、わたしも同じようにいう。2回、3回は至って普通のやりとりであるが、たぶんそのあと20回くらい言い合ったと思う。

お互い、他愛もなく雑談することなく、世間話する間柄でもないので、間を埋めるように「ありがとうございました」と言い合っていたのがおかしくて、あまりに息を吐くように言うもんだから、なにかこう言葉をはさむ余地もなく、ただただ言い合いながらも心のなかで「いつ終わるんだろう」と思っていた。(向こうもそう思っていたかもしれない)

結局、後退りして距離が大きくなったところでフィナーレ。

静寂が訪れたのでまた、おかしくて一人で笑ってしまった。

2026/03/06

1817.

​杉並区にある本屋titleの2階で花松あゆみさんの展示が開かれていた。

わたしは別の目的で本屋に入ったが、その目標物に今日はたどり着けないと認め、本棚をじっくり見ることにした。ひと通り眺め終わり、花松さんの作品が展示されているギャラリーまで階段を上がった。

花松さんの作品のなかで「たぶん満月」という作品タイトルが印象的だった。作品を見てタイトルが印象に残ったというのもなんだかそぐわないけれど、あ、いいな、と思った。

わたしは仕事から帰る途中、月の光を好んで探したり、ふと見上げた夜空に月を見つけてうれしくなったりする。たとえ丸くて大きな月が見えても、たしかにその場で満月だと言い切れる自信はなく、かといってどうみてもまんまるなので、わあ、満月かなぁ、きれいと思いながら、月のカレンダーを調べてみたりする。

そうだよね、満月ってはっきりとは言い切れないなぁと、本屋を出て帰宅中にずっと考えていた。

むかしのひとはすごいなって。

Googleで検索もできない時代、夜空に漂う月を見ながら今日は満月だ、なんて思っていたのだろうか。

でも、むかしのひとも「今日は満月かなぁ、たぶん。」なんて、言っていたかもしれないな。

2026/02/27

1816.

むかしは尖った言葉遣いだったのも、年のまにまに丸くなり、だからいってその個性がはがれ落ちるわけでなく、むしろ洗練されたような感さえ漂い、ひとつの真円のような文体をつくりあげる。わたしは川辺で転げまわる石ころに思いを馳せた。自然のなりゆきは美しい。



2026/02/23

1815.

今夜の風は特別に心地よい。寝静まった夜に暖かい土の匂いが、春の匂いが南から運ばれている。

篠田桃紅さんの作品が所蔵・展示してある岐阜の現代美術館GICOMAに先日、訪問した。

亡くなられたのは3年前か。

はじめて知ったときはすでに100歳を越えていらしたが、それでも活気のある様子だったので、芸術家は早死するというわたしの臆見をきれいに容易く打ち砕いた。そしてなにより作品が凄まじかった。こういう人になりたいなぁとおこがましくも憧れる存在だった。

もちろんいまでも、それは変わりない。

だけど亡くなられて、いまはさびしい。

わたしの書は世のうつりかわりに対する、無常に対する惜しみ方だと、そのようなことを桃紅さんは言っていたが、惜しみ方という言葉遣いがすてきだと思った。

そして、わたしは名残惜しいという別のことばを重ねて浮かばせた。名残惜しくて描いています、わたしにとって、それもいいなと思った。





2026/02/19

1814.

​むかしのことを話したり、話していると、記憶が活性化されて、季節をめぐり、いまは冬の冷たい土をかぶったたくさんのことがあふれるみたいに思い出されて、それはまだなにも知らない、前だけしか見ていないような年ごろにはきっとわからないような体験なのかもしれないと、そのあとで日常的で些細なことを何気なく済ませていくうちに、そのたびにまたむかしのことが思い出されて、ふと気付かされる。