2018/11/30

1711.

紅葉は派手やかにうつり、見頃にはこれいっそうのことはないと見えるのが、そのうつくしさを際立たせる。私も紅葉が好きだ。それを見ながら、毎年の秋を満喫する。大学の敷地に赤葉が見えたとき、私はいつものように喜んだ。いつものように道を歩けば、赤葉がきまってよく見えた。それがいつしか驚きに変わった。紅葉は派手やかにうつり、うつりかわっていった。結局、私は今まで見たもののなかで最もあざやかな自然を見た。自然はその心を燃やしていた。そして、青空を地にして錦秋の葉のかたちをとらえ、はっとする。のこりひとつきを夢に数えながら、つごもりの日を過ごす。宵に浮く月をとらえ、あくびする。

おぼろげに聞く、モノローグ。
秋の夜のエコーロケーション。


2018/11/23

1710.

「また会いましょうね。」
という、わたしよりもうんと歳をかさねている人で、わたしよりもいっそう活気にあふれる方から言葉を頂いたので、わたしは嬉しく思った。自然のなりゆきがあるとはいえ、その終着点へ少しでも早く向かおうとする、こころの努めがある。今度は会えなかったけれど、わたしは来たる日のためによく過ごそうと思った。

およそ誰もが「一期一会」という言葉を知っている。
それはすでに結ばれたご縁を大切に扱うことを言うのでなしに、わたしたちの、ある機会に臨むさいの心がまえをいう。たとえば、それはときたまの食事会やデートに際しての心構えである。良き出会いがあったから「一期一会」というのではない。
「一期一会」という言葉は、毎秒と毎秒、あたまのなかに刻まれるべきものではない。毎日のことに「またとない」と思うのは無理があって、わたしたちは「明日死ぬかもしれない」と思うよりも「明日はなにをしようか」と思う。それをよくないことだというのはやはり無理があり、さらには「毎日のこともまたとないと思って大切にしよう」といったところで同じである。
「心がまえ」とは、来たるべきものに対して為される備えである。
日常において来たるべきものとは、非日常である。非日常に対する「心がまえ」は日常のうちで為されねばならない。それゆえ、そのための日々の稽古がある。あるいはそのための日々の修行がある。「一期一会」は茶道の言葉であるから、それがどういったものであるか、いまや明らかであると思う。

わたしは思う。もっともすぐれたものに会う機会があるならば、わたしはどのような人間であるべきだろうか。


2018/11/20

1709.

バスの窓の外を眺めると、県庁前の公園は紅葉が盛んだった。そこだけ黄色の空間で、じっと見つめることはなかったが綺麗だと思った。
つい最近、和洋混合となった庭園の薔薇を友人が写真に撮って送ってくれた。その庭園は以前私の住んでいた家からすぐ近くにあった。数百円程度の年間パスポートを購入して、休みの日などは足繁く通っていた。薔薇園をのぞむ洋館があって、よく撮れた写真があればそれを写生した。朝に来て散歩したりベンチに座って本を読むなどして憩う人もある。私もたびたびその一人となって、秋や春などは特別の音楽に耳を傾けながら平静なる心地になった。秋は詩情豊かな季節で、その生起はささやかだ。
庭園の写真を見ながらむかしのことを思い出したが、「思い出」は紅葉の葉っぱのようだ。それはたんに記憶されたものでなしに、情感のともなう記憶であって、その生起はもの静かだ。

紅葉が特に映えるのは建物や事物と一緒の構図に組み込まれたときで、それは「変移」の強調といわれる。歴史的な建造物が紅葉の衣装に包まれるとき、風が吹き、人は歴史の移り変わりを知る。私たちが変わらぬものと信じた諸々が、そうではないかもしれないとふと思われる。他方、移り変わりのなかにあって残存するものが知られる。そこに私たちは現在を見るかもしれない。

“歴史のゆえに現在がある”
と人はいう。これは真理なのかもしれない。現在とは消極的なもので、積極的なものはつねに変移に呑み込まれる。変移の時代というのは積極的なもので溢れている。それゆえ、「ダイナミックな」と形容される。現代はどうだろうか。もはやロマンは信じるに値しないとか抱くだけ無駄だと人々が言うにしても、次のことは信じてもいいと私は思う。もし私たちが永遠の愛を誓うならば、私たちは永遠の愛を誓うべきではない、と。

2018/11/16

1708.

ありがとう

右から読んでも 左から読んでも 午前三時

羊でも数えて 眠れない夜を過ごそう

目的のためには 嘘をついて

朝を迎えよう



血まみれになったキャンバスにどうかサインを

きっとあなたは天国へ行くわ

なぞなぞ と聞かれたら 黙ってキスを

感情論を押しつけるように

くれてやるといいわ



むすめすまにすむすまに

こころここのところこころとこなし

みがきまきみがきまおあみがきまきか

やおよろずのひつじども かぞえてみれば

つきかげに 秋のもみじば なぞかけて




2018/11/15

1707.

カレイドスコープの深遠は
日常の不安 と 非日常の確からしさ
が 微動し生きている

時をとめて 吐いて 吸って
時計がまわって 赤 黄 緑 の再帰原理

夜ごとのきらめき と まぼろし
あなたのあかるい まなざし と
かなたのまるい しろ と くろの
まわるとけい としつきまわり
ぐるり とまわる ときとまる

やすらかな日常と さようなら
良い子にしてます また明日



2018/11/13

1706.

ちいさな葉が赤く燃え、下風で足もとが冷たい。暖かくあった最近の日も疾く忘れ去り、冬めく季節の吐息の先に黙って触れる。手の感触も頬の感触も乾いた土面のように冷たくなって、暖かいところを手さぐりしながら空を見上げる。さむくなると、この世は静かになる。雨の降りそうな曇り空の向こう、この世は陽のもとの夢を見ているだろうか。私もまた同じように、眠るよ。

来たる冬、人の心は侘しい風の旋律に忙しなく動く。そのあいだ、相変わらず橋の上ではヴァイオリン弾きがいて、ゆきかう心に静かな灯を燃やしています。

2018/11/11

1705.

髪を切った。美容室のアシスタントが服好きみたいで少し話をした。
教えてもらった店にいつか行ってみよう。
ファッションを詳しく知っているわけでないが、もし可能であればそれもひとつの楽しみにしたいと私は思う。私のなかにも関心の対象としてファッションが存在していて、できればそれを満たしたい。
そして、ファッション以外にそうしたものが実に限りなく存在している。が、すべてのものに触れることはできず、過ぎてゆくものや見過ごさねばならないものを目に焼きつけながら眠らねばならぬ。そう考えると、生きるのがつらい。
歌って踊って、喜んで悲しんで、会って別れるなどして、そのあいだに過ぎてゆくものに対して、日々を紛らして生きなければならぬ。そう考えると、今にも死んでみたいと思う。

もうひとつ、別の言葉で表現するとしよう。

あるひとつのものを手に取ると、別のものがその手から滑り落ちる。
それだから、人生、この世、即ちすべての愛おしきものを汲み尽くすことはできない。
私はだから、一切、すべて、即ちすべての愛おしきものをこれとして受けいれる。
私が手に取るひとつのものは、一切である。
そう考えると、いまひとつ生きてみようと思う。



語り語られることは様々でありながら 是れ即ち一切を表現し
手に取り取られるものは多様でありながら、是れ即ち一切であり
生き生かされるもそれとして受けいれる

過ぎるものなく
来たるものなし
有ることなく
無いことなし

ただ それを一切として 受けいれる



私の哲学は、
かつて誰かの語ったものであり、
いつか誰かの語るものであろうと思う。

私の哲学は、
かつて私の語ったものであり、
いつか私の語るものであろうと思う。


いつまでも欲しかったあの愛情が、
いつまでも欲求として生じるにせよ、
それをただ愛おしく思う。


一切を受けいれ、
そのうえで私は生きる。

一切を受けいれ、
そのうえで私は始発する。



愛とは
すべてを受け入れること

私は...頭がよくなくて...
嘘つきで...気弱で...
そんな私を受けいれること
決して離れてはならないこと
私は外見がよくなくて...
そんな私を受けいれること
決して離れてはならないこと
そして 私にそうするように
君にもそうすること
すべてのものに そうすること



「愛がなければ 無に等しい」





2018/11/10

1704.

誰もやっていないことをやれ、という助言は実は誰のためにもならないものに思える。人のためになる助言というのは、つまり誰もが求める助言というのは、誰にも当てはまる必要がある。が、誰もやっていないことをやれという助言は結局のところ、誰にも当てはまらないからだ。
ごく一部の人間に都合よく当てはまったとしても、いったいそれが何の助言になるだろう。
逆に誰もがやっていることをやれ、という助言も実はよくわからない。というのも、誰もがやっていることは助言を与えられた人もやっているはずだからである。
だから、退屈な結論が出るとしても、それが本当の結論なのだろう。つまり、君がやっていることで、誰もがやっていることをやるだけなのだ。

しかし、厄介なのは誰もがやっていることをどうやって知るのか、ということだ。
すべての人間を観察することはできない。
赤ん坊や小僧もそれに含まれるのか。
だがまた、それが人間を知るということなのだろう。

デカルトは 考える ゆえに我あり といった。

私が確信することは、人間は誰しも考えるということだ。
だから、デカルトに続く哲学者たちは私たちに 自分で考えろ といった。

私もまた 自分で考える
ただそれだけだ。文句あるか。

2018/11/08

1703.

手塚治虫が描く漫画のおもしろさのひとつで、ぼくがもっとも気に入っているものは、モブキャラや街中にあふれるエキストラの吹き出しだ。
物語とまったく関係しない人物や物の台詞はそれだけでは無駄に思えるが、実はそれらが画面全体で見たときの無駄のなさを演出している。

1702.

他者が抱いている私の像はどこまでも私から離れていて
私の抱いている私自身の像もなにかと都合良く出来上がっていて
きっと正しいのは それらのどちらかでもなく
できあがった私や君の影が大きいからといって
私や君自身が大きいと思わないことだ

こんなこと はるか昔から言われているのに

君が抱いた私の像が基準となって
私自身が疑われることを
他者の世界に従うよう強制されることを
私自身は嫌う
そのことを君は
知っているはずなのに

2018/11/07

1701.

ふたつの目標を達成した。
新しい表現方法をひとつ覚えた。新しいことをやってみると、思っていたのと違っていい。思考のなかでこしらえた塊が内側から破れていくのを実感する。既にあったものも、ぶちこわしたものを足すとより大きな力になる。とはいえ私はまだ白と黒しか見えないので、いつか豊かな色彩を描けたらいい。私はなにも絵のことだけを言うわけでなく、経験は可能な限り、どこまでも広がっていくのがいいと思う。