2018/08/14

1691.

「野火」が再上映されるということで観てきた。血泥にまみれた人間と色鮮やかな自然のコントラストが印象的だった。死体の人形は手づくりであるがゆえにグロテスクだった。シュバンクマイエルのアニメのように、まるでそれに触れるような感覚を覚えた。触覚のざわつき。夜中の不自然な光の中で殺される緊張が自然と身体に染み込んでいた。いつのまにか前のめりになった自分がいた。 人間という存在は不思議だ。いつか書き上げたノートを取り出して、考えていたことを振り返ってみたが、他の人たちのように、私は多くのことがらを捨てながら生きているんだと思った。そして、互いに愛し合うことは可能なのか、私はまだ応えられないが、別の私であれば答えていたかもしれない。拡散されてしまった無数の自己がいつもあちこちを漂っていて、それらはみな、完璧主義者のように目をぐるぐるとまわしている。 ノートパソコンが一部故障した。この夏をめぐって、いろんなものがこわれていくのかもしれない。それでもすべてがこわれていくわけじゃない。いつもそうだ。でも、いつからなのだろう。

2018/08/08

1690.

直観は気紛れだ。たとえば何かを言っている傍で直観が働くときがよくある。あとで直観の影を追って言葉を紡ごうとしてもうまくできない。それがベースにあって私は何かを言うのか、私が言っていることがベースとなって直観が働くのか、わからない。それは線香花火のように短命であるから、多くは直観の生起を明確に意識する前に消えてしまうし、それと知られることがない。
かすかな残像だけが取り柄となって、それがどんなものか知らないながらも待望の好機を逃したような気分になる。片思いの女性がふと目の前を声かける間もなく通り過ぎたかのような気分を味わうのだ。それはもしや錯覚なのかもしれず、往々にして直観は間違っているということを思えば、その戯れに度々付き合わされているのかと自分自身を不憫に思ってもいい。
でも、直観が生じるのを私はいつも楽しみにしている。それがどんなに私から離れてしまおうとも。きっと風の通り道のように直観がそこを通るのが好きな道がある。子どもさながらにそこへ足繁く通って、直観が気紛れに生じるのを楽しみにしている。


2018/08/06

1689.

月の光をうけて誕生したような、懐のたそがれ。......富田勲の『月の光』を聴きながら、この世の向こう側を思い遣る時間。異端児として現われた電子音の戯れが美に浸透するまでの時間、それは宇宙誕生から現在までを内包しているのかしれない。宇宙に存在するとあるひとつの美をまるで時計職人のように表現した音楽家の創造力に感嘆する。時は来た、そのようなことがあり得たのかもしれない。潜在していた美がその姿態を露わにするためにシンセサイザーを待っていた。もしそうだとしたら、それもまた壮大な愛なのかもしれない。

2018/08/05

1688.

今日は喫茶会へ行ってきた。大学で関係のある人たちが集まって飲食しながら談義する会だ。パートナーの価値だとか相互理解の可能性だとか映画についてだとか、いくつかの話題が持ち上がった。テーブルを囲む人たちが話を展開していくのを、コーヒーとケーキを食べながら聴く。ときに頭のなかでアイデアが浮かびはするが、それを言葉にして声に出すのはどうしても困難だ。みんなが持ち前の言葉を費やす一方で、私は疑問を一つ投げかけるだけで精一杯、そんな具合だ。たくさん話した方がいいというのも分かるけれど、確かにたくさん話すための工夫がないかとこれまで考えてきたのだけれど、言葉を発するさいに相変わらず抵抗を感じる。キーボードのEnterキーはあるのに、まるで押しても作動しないような抵抗を。それだから、耳と目をつかって話を聴いていた。話を聴いていると、頭がぼうっとしてくる。頭の働きが遅々として話についていけないのかもしれない。私はまた、その場にいることの意味を考えなければならなかった。みんなと一緒に話のなかに入っていた、ただそれだけで、ただそれだけのことが十分に良いのだけれど。

2018/08/04

1687.

ある部分で見れば病的であるようなことが私のなかにも潜在している。例えば多動性、ロッキング、同一性の拘り、予定外のことに対する不快感や妄想といったものだ。自閉症とも結びつくことがらがドライアイスのけむりのように生活の深部で漂っている。自他平生の内部で渦巻く物之怪はまた別の病的なほどに強力な作用によって抑えられていると考えていいのかしれない。そうした別の作用は、例えば自分を守るために嘘をつくような場合に垣間見ることができる。それがどうであれ少なくとも、超現実なものどもの内的な共生に反して、いやむしろそれらの均衡に因って私の外見はかなり落ち着いているといっていい。(私は昔からおとなしいとか落ち着いていると言われてきた。)
 衝動性は一般に外見において顕著であるけれど、その効果が目に見えるとも限らないと思う。例えば私は次のことがらが苦手だ。予定があること。予定や計画を実行すること。他者の指示どおりになにかを行うこと。友人がこの日に映画を観ようと言ってくれたとして、私はその時点では特に何も思わない。というと嘘になる。やはり予定が決まるということは苦手なのだ。それとて断る理由もなければ、内容如何によっては観に行きたいとも思う。でもとうとう時が迫る頃になれば、嘘でもついて予定を破棄しようかと思うほど嫌気がさしたりする。心情の左様な過程をほとんどいつも辿っていて、このところ数年は無視していたつもりであったが、予定に対して嫌気を感じるのは衝動性を原因としているのかと気になった。もしそうであれば、自分で思っている以上に私は衝動的なのかもしれない。

2018/08/03

1686.

今日も外に出て朝の強い陽射しを浴びた。書籍の積み重なった重さを量るように身体が自然と機能した。日課はじめの調子が続いてほしいと思うのは曲のイントロを聴いて期待するのと同じなのかもしれない。でも結局、長続きしない。私の手にかかったものならどれも大きな海へ流れていく。ときどき、手や足が重たくなって動けなくなる。そうすると、どうしようもないのだ。生命のリズム、というわけではないけれど、人の生きる仕方にも律動があるんじゃないかと思うことがある。快い気分のあとには不快な気分に陥るのはわりと自然なことだと思っている。不快はそれ自体つらいことなのだけれど、そう思うと、快と不快に左右されるよりもきっと広い視野があらわれる。感情はそういう意味では確かに相対的なのだ。だからまた、不快を一切排除しようとするような或る快楽主義はその意図に反して生きづらいに違いない。

でも、快と不快といってもいろいろある気がする。他人があることを不快と思ったとき、それに対して不快な気分を受けいれることを私はその人に提案するだろうか。私の答えはYESだ。不快な感情の受容はそれを引き起こした行為や出来事の受容とは異なっているからだ。

2018/08/02

1685.

私はなぜ生まれたのだろう。