2024/08/04

1799.


内なる探求は、他者の存在によって、より複雑でゆたかな次元へと導かれる。「他者を通して自己を認識すべきである」という命題は、単なる処世術ではない。

人間関係の中で生じる誤解、期待、失望といった摩擦こそが、安穏とした自己認識を揺さぶり、より深い内省を促す契機となる。他者は、自分自身を映し出す不可欠な鏡なのだ。

その他者という鏡に映る歪んだ自画像と向き合うことなしに、真の自己理解はあり得ない。

2024/02/25

1798.

 なぜ私は考え、書き続けるか。それは、世界との関わり方を模索する、わたしなりの営みなのか。

かつて哲学は、人間の思索の世界と現実の日常的な世界の乖離を確実なものとしてしまった、と非難された。観念の世界で遊ぶことばは、日々の生活の手触りから遠く離れ、一部の専門家だけが理解できる暗号のようになったという。

なぜ、わけの分からないことを考え、無益な概念を生み出し、自らもそのことを認め、それが哲学だから仕方がないなどというのか。

私は信じている。「哲学は常に理解できなければならない」と。それは、哲学が日常の中からこそ見出されるべきものであり、私たちの生と分かちがたく結びついているから。

だからといって日常の中にとどまる必要はないのではないか、とも思う。



2022/09/28

1797.

調子が悪い。頭の中が無秩序状態。
無理にお利口さんになって秩序立てようとしても、こう、効き目がない感じ。


よくあることだといえば、よくあること。
自分のことなんてまだよくわからない。自分を早々に知って、納得したまま生きられる人間もいれば、納得したままでは生きられない人間もいる。意志の強さとか、努力とか、そういうことではない。

2022/07/20

1796.

久しい手紙が手元に来れば、光が差し込むようにあっという間に過去の影は失せていく。気泡を日常の風に弾かせながら、ことばを心の深くで受け入れる。今日、手紙が届いた。
深海の静寂を忘れて海面を泳ぐばかりでは人間の気持ちも読めなくなる、時化の荒れ狂う日には見慣れぬ感情に呑まれそうになる。
時代が違えば分かり合えた人間たちも、流行りの世の中では挨拶を交わし合った後で余所見した途端に絶交する。それが現代。「断ち切るのでなく解いていく」のは時代遅れ。
そのような時代にあって、手紙やメールを交わし、ことばを心の深くへ届けてくれる非常な存在は家宝のように大切だと思える。

ことばは何のためにあるのだろうか。
人を動かすためか。
心を動かすためか。
人を鎮めるためか。
心を鎮めるためか。

2022/07/07

1795.



学生の頃からお手紙を送り合っていた親友からの音沙汰も消え、ふと出会う人々とのご縁も蚕の糸のように儚くて、顔も合わせたことがなければ、ことばを交わしたこともないアカウントを傍目から覗いたり、流行りの音楽が冷たい山水のように流れていくのを受けとめ、吐き出したりして、ちょうどいまのわたしは魂をどこかへ置き忘れたように光に淡く揺れる午後の草葉だ。

やっぱり、わたしとこの世界はどこか合っていない。人はわたしを親指と人差し指で異物のように摘み出し、赤児に話すようにさようならと言う。この世界からつまみ出されたわたしに、つながりたいという作用がいっそう働く。

人間は孤独だ、と言い切った篠田桃紅さんが羨ましい。人間関係の底に棲む執着というものを、わたしだって尽く焼き払いたい。見知った人たちが星々のように久遠に散らばる。そしたらわたしは生まれ変わると、本気でそう思っている。

2021/12/29

1794.




今日で仕事納めである。来年の準備。やはり、と思う。
自分ができることを見つけてやる、何か言われるより先に完了させておく、誰もいないときになんでもやっておく、やはりそういうことに愉快な喜びを覚える。そういうことを許してくれる職場環境も、それを自然と褒めて下さる人たちも、大好きだ。

どんな大変な仕事でも、どこかに楽しみを見出せる、誰かが楽しみを知っている。
ぼくはぼく自身と仕事仲間のために働きたいと思う。(それが全体として「お客さま」に届けばいい。労働者にとって、それは理念に過ぎないのだから。)

やはり、労働における自発性は貴重な活力源なのだ。

2021/12/15

1793.


虚しさ、そのなかでも強力な虚しさに襲われることがある。身体全体に眠気が襲ってくるみたいにどうすることもできないような虚しさ。

この虚しさは歳を重ねていけばいくほど、わたしの心に訴えかけるようにして染み込む。そもそも、わたしは歳を重ねれば重ねるほど、この無邪気な訴えがゆっくりと鎮められるか、そうでなくともより上手く付き合えるのではないかと常々思ってきた。それは別の見方をすれば、自信の表われ、自己肯定感の高まりと内省の充実を示すものであるかも知れない。確かにわたしは生を肯定する、生の肯定まで考え抜いた、人生を肯定的に捉える根拠を見つけたのだ。虚しさは生を肯定するわたしの前に姿を表すことはもはやないだろう。が、そうではなかった。それは段々と大きくなって、強くなって現れる。いまやわたしにとってそれは底知れぬものとなった。底知れぬ虚しさである。いったい、この虚しさの湧き起こる余地がどこにあるだろうか。わからない。
それはわたし、あるいはわたしたちの思いもよらない、全く別のところから湧き上がっているのかも知れない、そんな得体の知れない気配を感じる。対照的に充実した日々、考えることの、知ることの楽しさ、美しいものに触れる喜びたちがわたしを満たしていく日々、周りの人たちのおかげで快適な生活、それらは明らかに自分自身の内発的な感情である。わたしはあるとき「また赤児として生まれるならば」と考えたことがある。わたしは今でも思う、また自分がいい、また何度だって自分自身のように生きたいと。
それなのに、それなのにこの虚しさは。いったい、どこから来るのだろう。消えてしまいたいという抗い難いほど強い気持ち、自分とも、何者とも関わりたくないという抗い難いほど強い気持ち。もう一切の関わりを連絡を断ちたいと思ってしまう。もうそのように決断してしまう気持ちのはやり。


昨夜、わたしはこの底知れぬ虚しさに襲われ、その只中にいた。この強力なものの根源がわたしのなかのどこにあるのだろうか。これと付き合っていくには、わたしの心は脆弱が過ぎやしないだろうか。もしそれがわたしにとっての試練であるならば、ひどく不条理であるとさえ思う。いや、単なる眠気のようなものだと認めて過ごせばいい、そう思う自分も今はいる。本当に、そうできればいいのだけれど。世の中には、なにか救いがあると期待すると抜け出せなくなる穴のようなものがあるから。