2020/06/27

1745.

思えば、安心と不安が日夜のようにあらわれ、わたしもその渦に呑まれたことがあったかもしれない。だけどそのつどわたしの腕を必死の思いでつかみ、わたしを留めさせたのは、わたし自身であった。

わたしはつよい、わたしはつよいと言い聞かせたあの頃にくらべて、いまはなにも言い聞かせることばをもたないで、こころおだやかになったつもりで、しずかに過ごしている。

情動に呑みこまれていたころのことばをいまやもたないわたしは、だれの苦しむこころに語ることができるだろうかと思う。ことばなしに寄り添うことができたらどんなにいいだろうかとわたしは思う。



2020/06/10

1744.

 絵を描くばかりだ。本も読んでいない、映画も観ていない、SNSにログインするのも億劫だ。ごめんなさい。だってなんだって、絵を描くのが楽しい。

ペンタブを買ったら、世界がひらいた。朝目覚めて気づいたら、パソコンをひらいていた、ペンタブを接続していた、描きはじめていた。こういうときのわたしはなにを描くかを決めるよりもさきに、描きたいものが存在するよりもさきに、描きはじめている、なにもかもが遅れてやってくる。なるほど、それを知覚し、それを名づけるのは描き終わったとき。ええ、ことばもいまはたよりない。

こんな貴重な時間、1年のなかでも滅多にないのだと思う。季節性の趣向によって、どうせ明日になれば、来月になればちがったことをしている。

でもいまは絵を描くばかりだ。絵を描くばかりの日々もいいなあって、絵を描くのが楽しいなって、そんなこころをわたしは儚く灯している。



2020/06/05

1743.

 深夜に目覚めると、チャーリー・ヘイデンのベースがいつにもまして心地よく聴こえる。夜は人をしんみりさせる。そのあいだ、夢はどこかで人を走らせている。

だれかは太陽の知らないところへ、それからきっとそのひと自身でさえ知らないところへ誘われて、次の日こんどはあなたが誘われるかもしれない。このためにはお酒も煙草も必要なくて、愛も真実も必要ない。必死の奔走が雨といっしょに泥土をはじいて、轍には水たまりができて生命の源が発現しているだろう。だけど夢の痕跡は五感のどこに居残ることもなく現実のひかりのなかでたやすく分解される。それでも人は夢のなかで走る、きっといまもどこかで。

未熟なものの思想がそうするように、わたしは同じ環をいつまでもぐるぐるとめぐって、口を開けたまま、星ひとつさえ見えやしないのに空をじっとながめている。それはでも、夜が望むことでもあるから。夜は人をしんみりさせる。それで溶けて消えていってしまう人もいるとか。空をながめていると、わたしもそういう人と同じ気になる。

2020/03/29

1742.

 電灯もなく、町の明かりから離れた真っ暗闇の、いつどこで獣におそわれるかしれない藪道をおどおどしながら歩いて、だれもいない夜の海辺に立つ。そこはだれもが、わたしだけが知っているひみつの海辺だと思っている場所。

ときどき、だれもいないと思い込んでいたわたしの胸に、向こう南から異国の楽器の奏でる音楽がきこえてくる。口琴やハンドパン、ジャンベの音色がともに音楽を深くたたえた潮にのって、風にのって、やってくる。現世を生きることに不器用な、それでいて生きがいをこころに宿したひとたちがタトゥーを入れた躰で夜な夜な踊っているんだ。

低い堤防のうえに仰向けに寝転がって夜空をながめると、次第に寝静まってゆくような波の音が耳もとをとおりすぎたり、風がわたしの躰を足もとから包んでいったり。ねぇ、星がたくさん。ここにいたいね、ずっと。そうしてこころをいつまでもとかしながら、夜天の先の宇宙というものを身のまわりに感じたり、キャンバスに見立てた空の、無数の星々を自由に線でむすんだりする。

すべてが暗夜のなかへ沈み、わたしとひみつを交わして消えていってしまう星たちと同じように、このまま海といっしょに眠ってしまってもいいと思う。それとも、遠くの星たちがたがいに呼び覚ましあって、もっともっと夜空を光でいっぱいにしないだろうかとも。

流れ星がひとつ、寝息するようなひかりの呼吸のなかで消えてゆく。ふたつ、夢のような速さで、あっという間に。



2020/03/12

1741.

坂道をくだる自転車は車輪を回転させながら大池のよこたわる公園へ向かって午後三時を颯爽と走り抜けてゆく。公園では、中学生たちがサッカーボールを天高く蹴り上げる。三月、春日和。

ヘレヴェッヘ奏でる、ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」を聴く。胡蝶蘭やガジュマルの鉢が造作なく置かれた部屋の、外の光を身体いっぱい受けられるほど大きい窓をひらくと、さながら鳩のいっせいに飛び立つように、今日という一日が高く羽ばたいてひろがる。


春とは、横溢する精気に駆られてからだの細胞という細胞がおどりだすとき。

わたしはそのとき、力いっぱいつかんだ土を口から喉の奥底へできるかぎり放りこんで、胃や腸に樹や花を咲かせたいと思う。そのために、雪の重みに耐えてきた草木たちがほしがる春の光を、たくさん頂かなくてはいけなくて、口をもっと大きく、大きくひらいていないとだめだといわれる。

身体中のあらゆるものが陽の光を欲し、閉じた身体をひらき骨をかぞえてならべ、内臓をとりだし天日にさらそうとする、そういう心底から発せられる精気で春はあふれる。

菜の花畑をみわたすことのできる陽だまりの丘へ子どもが走ってゆき、それをしあわせとよぶこともなく、ただただ無邪気に目を糸のように細くして笑いながら寝ころぶときの、解放感。閉ざされたこころも春のなかできっと、ずいぶん大きくひらくときがある。

そして、いまこそことばにならないなにかもきっと、いつか芽生えてあらわれる、ことばの「意味」が時間をかけて本質をもつという、それが真実だとしたら、ひょっとすればかわいらしい花を咲かせもするだろう、知識とは知恵とははるかにいいがたい幼稚な覚知がそれでもなお、みなぎる循環のなかにあって、おのずから複雑な知の樹形図をいずれの日にか、描くかもしれない。そうねがって、本を閉じる。

窓をひらくと、今日という一日がはじまり、どこからきたのだろう、ゆったりとした時間が風のようにながれてくる。自省のなかにも、未来のなかにも。そして、そのさきにも。



2020/02/29

1740.

月日のゆくえにしたがって、わたしたちはもうすこしでねむりにつく。

ええ、わたしもそろそろ。

たよりになるやわらかい寝床の、その心地良さに思わずうずくまった朝も、これからおこる風をときにはのどかに読んで、ときには心忘れて読んで、種蒔き萌芽によせたしげく期待も、二月の暮、閏日はやさしく受けいれた。

わたしは春の、晴れた空を見あげて、あなたを横に寝そべりたい。どんな本を読もうか。本を読むわたしを横に寝息を立てるあなたがいる。とこしえの陽となり、つかずはなれずのぬくもりであなたを抱いていたい。

鳥が鳴いたと識ってめざめる朝のしずけさが好き。うつりかわる時期ゆえの不安も、わたしたちならすっかりしずめてみせた。早とちりの似合わない二月の夜が延々とひろがってゆく。芽の「出たい」という、潑剌としたこころもちでその窮みに見たのは、よろこびも、かなしみも湛えたひかりのなみだ。

四方にわたるひかりの線が、かたちをかえながらわたしの目にせまる。次第にひかりはかさなりあって、ふたつとひとつと、わたしをあなたを、迎えにくるという。

きざみよく鳴る時計の音も、かすんでぼんやりと、ぼやけて、ぼうっとするうちに、消え失せて。

わたしたち、またすぐ童子さながらの表情で、日がのぼるのをみるだろうか。

ああ、そうだといいな。そうだといい。

2020/02/06

1739.

 如月の夜に吹く風は蕭々として冷たい。

春と冬の季節の淵で感情が高くうずまく、そんな忙しなさのなかで来たる季節を心のなかでよむ。しずかに、歩くような速さで。そう、たとえば肌をさす六花の音、あまいショコラのかおりよけて、風媒花の無言のいとなみに耳をかたむけたり。「おおかみこどもの雨と雪」のサントラを聴きながら、高木正勝さんの表現力に、感動したり。

寒さのいっそう強まるこの時季のときどきに、寒空のむこうから土面へ陽のさすことがある。生気がひさしくおこる。

いつの日か、わたしは他の生気を吸いとる鬼だと思ったことがあった。まわりの人間たちが次々と寿命を迎えたときである。わたしだけが生きて、生きつづけなければならない。「生きつづけなければならない」という、この感情にかくれた生命力はなんだろう。人が、身近な人が亡くなったというのに。あの人が亡くなるかわりに生気をいただいた、とでもいうのだろうか。このみなぎる活力は、この生きがいは。ああ、わたしは鬼だ、鬼のようだ、と自分が自らの生活のために人間の生命を吸いとる鬼のごとく思えたことがあった。

でも、そのような鬼までもが、冬はつとめて陽にあたらなければ自然と気が滅入るようです。身辺に横たわる気色のよくない音や言葉が、皮膚の穴という穴に冬籠りして、息が詰まりそうになる。

くわえて、人と関わることに諦める心も生まれる。なんだか疲れたなあ、そう思うこともあります。できるだけ姿を潜めて、スクレロチウム。春の陽光を夢見てひとやすみする。それもまた、この季節柄なのかもしれない。

そういう季節のなかで、寒空のむこうから午後の土面へ陽のさして、生気がひさしくおこったとき、身辺のかたく冷たい言葉がすこしながれていきました。日が経つにつれてきっと、氷がとけて山水が流れだすように、活力も湧くのかなあと、そう思うことにして、いつ起きるかもわからないふりをして、ねるのである。