如月の夜に吹く風は蕭々として冷たい。
春と冬の季節の淵で感情が高くうずまく、そんな忙しなさのなかで来たる季節を心のなかでよむ。しずかに、歩くような速さで。そう、たとえば肌をさす六花の音、あまいショコラのかおりよけて、風媒花の無言のいとなみに耳をかたむけたり。「おおかみこどもの雨と雪」のサントラを聴きながら、高木正勝さんの表現力に、感動したり。
寒さのいっそう強まるこの時季のときどきに、寒空のむこうから土面へ陽のさすことがある。生気がひさしくおこる。
いつの日か、わたしは他の生気を吸いとる鬼だと思ったことがあった。まわりの人間たちが次々と寿命を迎えたときである。わたしだけが生きて、生きつづけなければならない。「生きつづけなければならない」という、この感情にかくれた生命力はなんだろう。人が、身近な人が亡くなったというのに。あの人が亡くなるかわりに生気をいただいた、とでもいうのだろうか。このみなぎる活力は、この生きがいは。ああ、わたしは鬼だ、鬼のようだ、と自分が自らの生活のために人間の生命を吸いとる鬼のごとく思えたことがあった。
でも、そのような鬼までもが、冬はつとめて陽にあたらなければ自然と気が滅入るようです。身辺に横たわる気色のよくない音や言葉が、皮膚の穴という穴に冬籠りして、息が詰まりそうになる。
くわえて、人と関わることに諦める心も生まれる。なんだか疲れたなあ、そう思うこともあります。できるだけ姿を潜めて、スクレロチウム。春の陽光を夢見てひとやすみする。それもまた、この季節柄なのかもしれない。
そういう季節のなかで、寒空のむこうから午後の土面へ陽のさして、生気がひさしくおこったとき、身辺のかたく冷たい言葉がすこしながれていきました。日が経つにつれてきっと、氷がとけて山水が流れだすように、活力も湧くのかなあと、そう思うことにして、いつ起きるかもわからないふりをして、ねるのである。