服飾科の友人に以前、スマホで撮った写真を見せてもらった。花瓶が床におちたのを真上から撮った写真。突如として訪れた沈黙をそれは表していた。きれいにわれ、こなごなになり、無言で視覚に訴える力がある。空気にはじめて触れるような純粋さがわれめに見えもする。
いいね、とわたしが言うと、いいよね、と友人が返す。花瓶のわれたのを撮るのがすきらしい。いつか自分も、とあこがれて思うのだけれど、類似のものを貼りつけたような感性によっては、そうした瞬間を容易に見のがしてしまう。
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近所の川沿いにちいさな商店街がある。そして商店の建ちならぶところにひとつ、瓦礫の山がある。大地震で家が倒壊したらしい。どういうわけか、それをそのままに残してある。
わたしは陽にさらされた瓦礫たちに想いを馳せてみる。そして、もとの場所はどこかとたずねてみる。同時に、そこにあるはずだった家のすがたを思念した。が、それはできなかった。ここにある、と瓦礫たちは示してくれるだけだったからである。
瓦礫は、ちょうどトカゲが切断された尾を再生しようとするような、自然が自己の空所をおぎなうような、そういう意志をまったくもたないのだろうか。もとはどこにあったかなんておしえてはくれない。ここにある、と示すだけなので、過去と現在を想像によってうかつに結びつけようとしたわたしは戸惑い、一日のこれまでのできごとをすっかり忘却することになる。だけどもそのときの、現実のまま夢を見るような束の間に、ことばの、イメージの、われる音がかすかに聞こえる。