2026/02/19

1814.

​むかしのことを話したり、話していると、記憶が活性化されて、季節をめぐり、いまは冬の冷たい土をかぶったたくさんのことがあふれるみたいに思い出されて、それはまだなにも知らない、前だけしか見ていないような年ごろにはきっとわからないような体験なのかもしれないと、そのあとで日常的で些細なことを何気なく済ませていくうちに、そのたびにまたむかしのことが思い出されて、ふと気付かされる。

2026/02/17

1813.

先々週の​雪の日に手袋を片方なくしてしまった。その前の日にもう1組の手袋を片方なくしてすぐだったので気が滅入った。なんならワイヤレスイヤホンの片方もつい最近なくしてしまったし、もう1組のワイヤレスイヤホンの片方も壊れてしまった。

そういうわけで、いま手元にあるのが片割れの寄せ集めとなった。

片方をそれぞれ付ければ遊戯王でいうエグゾディアのような、とはいえ統一感のない、ポンコツロボットみたいな風体だ。もちろん、異なる手袋を片方ずつ付けるのはなんだか野暮ったいし、異なるイヤホンを片耳に付けるなんてこともできない。

とりわけは、お気に入りの手袋がなくなったのがかなしい。

もうだいぶ前の日のことなのに。


でも、ふと思ったことがあって。

寒さを防ぐことはもちろんいいのだけれど、寒さに耐える日もあっていいかしれない。

手袋やニット帽だけでなく、いまではヒートテックまで流通し、とても過ごしやすくなったにちがいないのだけれど、寒いと感じるから着るというよりも冬だからとか寒そうだから着るという風に少しずつ変わり慣れ、空気の寒さをなかなか感じられなくなったような、そんなことをふと思ってしまった。

慣れということでいえば、もっと深くまで考えられそうなのだけれど、今日はこの辺で消灯。

あぁ、さむいさむい。

そう言って、お布団に包まる就寝もきっといいよね。



2026/02/07

1812.

​洗濯物をしまおうとカーテンを開けると都内のビル群の端で妙に赤茶色の月が雲に隠れようとしていた。明日からひどく冷え込むらしかった。

カメラを持って、屋外スリッパに足指をひっかけてベランダへ出る。めずらしい月の姿に向かって手ぶれに構わずシャッターを切って、切って、何度も切った。

部屋に戻り、ソファに深く座って撮影した画像の具合を確認する。ぼんやりしていたり、光を入れすぎていたり、なかなかうまく撮れていなかった。

そんなもんよなと思い、カメラを脇に置いて飲みかけの温めた牛乳を飲む。外の冷えが足先だけに残っていた。





2026/01/27

1811.

​夜はいっそう冷えてかじかむ。指先から冷えるので手袋をするが、不自由なのをきらって薄めの手袋をつけていて、結局さむい。

こんな寒さのなかでも、室内の植物たちは元気にやっている。

日が沈むと葉を閉じて眠るシダには、部屋を明るくしてごめんねと、言わなくちゃいけないね。


ごめんね、だって。

言葉を交わすわけでもないのに、言葉を交わすことのない存在によって、どうかして癒されるのも不思議なことだ。



1810.

​「間違っている」と言われる認識のなかにも、なにかしらの正しさはあるものね。

 

2026/01/18

1809.

​哲学と進歩について語るすべての人が忘れていることは、Emanuel Kantによる認識論のコペルニクス的転回をわたしたちはまだ乗り越えていないということだ。

一体全体いつまで、人々は「その赤いリンゴ」というのだろう。リンゴは赤く見えているだけなのに。

も、この疑問はわたしたち人間に宿る定めなのだ。

2026/01/17

1808.

​つい最近、お散歩ソングを新たに見つけてよく聴いている。いまの時間感覚に馴染んで、いまの街の空気に似合って気が抜けて心地よい。

世の中の限りない音楽のなかで、お散歩するのにちょうどいい曲というのがあって、それはもしかしたらその人の歩く速さに依存するのかもしれないと思う。アンダンテ 「歩くような速さで」のテンポは、もちろん人によってちがうのだけれど、場所や状況、気分によっても変わる。なんだかうれしいとき、さびしいとき、むなしいとき、たのしいとき、それから渋谷を歩くとき、上野を歩くときだって、あ、これだなぁっていう曲がある。公園、帰り道、通勤路、太平洋の海辺を歩くとき、日本海の海岸を歩くとき、山や川沿いだったり、冬だったり夏だったり、ね。

まるで、レコードをゼンマイ代わりにまわして動く人形みたい。

そのときのお散歩ソングが時間とともによく耳に心に馴染んで、いつしかいろんなこと、いろんな人間を思い出させもする。

その木漏れ日のような束の間が、さまざまなものが紛れは埋もれて混雑した街の最中では、一等に尊い。