2018/09/26

1697.

画面の中ではなにをやってもいいんだ。言葉よりもっと自由な世界。
 許された許された許された許された。きっと誰よりも自由なんです。ああ言葉なんていやね、こいつあちっとも自由じゃない。お好みの言葉ひとつで十分なのに、文法なんて要求しやがるえっとはい私の次はハですかガですかええじゃあ私じゃなくてボクにしますはいわかりましたいい子にしますいい子にします許してくださいボクの次はハですかガですかハじゃなくてワじゃないんですかわかりましたハでいいんですね先生は絵は好きですか嫌いですか理由はなんですかどんな絵が好きですか頭のなかは何がありますかリンゴですかボクはリンゴですええだめですか先生今日は雨ですか先生今日は不倫相手とエッチしないんですか先生今日は眠たいですあと五〇分寝ますだから放っておいてくださいいい子にしますいい子にします許してください黙って下さい許して許して許して許して.......

2018/09/23

1696.

今日は秋分の日です。明日は十五夜だそうですね。
スーパー トロピカル ど クソ つらい です。

2018/09/18

1695.

 小説を読みたくなった。なんでもいい、やさしくてしずかで、さみしくて、冷たい左胸に秋風のそよぐ、そんな小説だったら。
 私は宮沢賢治の春と修羅をよんだ。詩人はすごい。人間の心が、あるときにはどれだけグロテスクなものかを教えてくれる。ちょうど心臓をなまものとして見るように、人の心もミクロスコープで見ればたまらなく奇異に違いない。詩人は自分自身で開発した顕微鏡を使って、そんな心の諸相を教えてくれる。
 小説を読みたくなるとき、私は感傷に浸りたいと思う。そこで得られる空気が、私の血流を促進するからだ。

2018/09/09

1694.

  今日は早朝から雷雨がありました。目を開けて様子を見てると暗いままなのに、目をつむろうとすればピカッと光るのです。雨はそれからずっと降り続いていました。それで今日は太陽がいませんでした。
  大学がちょうど閉門時間となるころにひとりで道を歩いていました。自分の足音よりも大きな声は虫たちのそれでした。秋雨で冷たくなった夜風は肌ざわりが良いですね。さまたげるものが少ない場所で、アコースティックのやさしい音色を聴く心地です。歩いている森の向こうでは車道を走る車の音が聞こえました。救急車のサイレンがふたつ遠くで鳴れば、飛行機の音も聞こえました。人影もなく、100m先の建物から人の声がするだけです。 虫たちの合唱にさらなる虫の声音が加われば、私の感覚はまるで家に帰ってきたみたいにくつろぎました。大通りに出ると、濡れた道を車が列をなして走っていました。それから住宅の並んだ道へはいると、家という家からテレビを見る音がなっていました。
  私は今日、たくさんの音をひとりで受け取りました。私がどこか寂しい気持ちになったとき、ここから遠いところにいる人のことを思い出すようにしています。私はもっと人のために生きたいです。

2018/09/03

1693.

今日は大学前にひっそりと佇むお洒落な文房具屋さんに立ち寄った。初めましてのご来店。特に何をするでもなく、だけどある期待を抱きながら入った。ある期待、それは私が文房具店と聞けば探し求めずにはいられない特別の、そして幻の付箋がないかという期待なのだけれど、大きな文房具店を探しても大きな街の小さなお店を探しても見つからないその付箋が片田舎の小さな文房具店にあるはずもなく、それだから空蝉の期待でしかないのだ。しかし、私が抱くほんのわずかな希望が遍在する文房具屋さんのうちのひとつへ立ち寄らせたのだった。入ってみれば、お洒落な内装だった。商品もモダンな並びになっていた。じっと見て回っていると、店主と思しき方が声をかけてくれた。探し物がありましたら… パーマか地毛か分からなかったが、どこか見知った人に似ている外見の女性だった。ああ、かつての仕事場で一緒に働いていた劇団員のお姉さんに似ていると思った。あ、いや、別に探し物はないのだけれど、と言いながらも、私はほんのわずかな期待を吐いた。もちろん、あるわけがなかった。それでも、幻の付箋のことを説明しているうちに彼女がお店のことを話してくれ、逆に私からも尋ねてみるということがあった。そうこうしているうちに私はお店を見回り終えていた。気になるノートもあったが、今回はポストカードを買った。次に来店するときは、またおもしろいものが入ってるかもしれない。だから、また来ます、と言った。 どうしてか、すこぶる気分のいい昼間だったと思う。そういう時は、だれかと会って話したいと思うのだけれど。

2018/09/02

1692.

パソコンが壊れたから、せっかく作ったこれも盛んでない。直せばいいのだけれど、多くのことをなんとかなると思ってるふしがあって、そのために多くのことが野ざらしにされていて、世間をとても真面目に生きている人たちにとっては、なにか見てはいけないもの、親が子どもの目を伏せさせたくなるようなものが天の下で白目を向いているのだ。だから、直せばいいというのだけれど、それはむずかしいのだ。いま生きている社会が正しいと思うと、全く別の社会を判定するのはむずかしくなる。この社会では子を捨てるというのはそれがなんであれ法の裁きを受けるのだけれど、別の社会ではそういう風習がある。相対的な知見は今や何も珍しいことではない。 でも私はそんな大きなことを言っているのではない。私はもとより気ままに生きている人だから、多くのことがらに関心を待つけれど、ある時その糸がプツッと切れると、どうでもよくなったりする。ただそれだけのことで、その糸がいつ切れるかなんて分からないけれど、一応は必死に切れないように努めはするし、糸から伝わってくるものを忘れることはない、たぶん。むかしは気ままに生きていて、何でもかんでも忘れるもんだし、すべてがどうでもいいとか思っていたところがあったかもしれないけれど、そうではなかった。だから、それだけ私も気ままによく生きてきた、と言っていいんじゃないだろうか。 ちなみに私は相対的に解決していくことよりも、比類のないものに向かって解決するほうが好きだ。人それぞれだなんて、みんな知ってる。いろんな生き方があるだなんて、みんな知ってる。でもみんな、このままでいいなんて思ってはいない。いろんな生き方のもとで、より良く生きようとするのだ。だから私もまた、パソコンが壊れたままでいい、もうパソコンは使わないだなんて思うわけもなく、パソコンを起動させようと頑張ってみるかもしれない。ただ、それがいつになるのかは私には分からない。