夜はいっそう冷えてかじかむ。指先から冷えるので手袋をするが、不自由なのをきらって薄めの手袋をつけていて、結局さむい。
こんな寒さのなかでも、室内の植物たちは元気にやっている。
日が沈むと葉を閉じて眠るシダには、部屋を明るくしてごめんねと、言わなくちゃいけないね。
ごめんね、だって。
言葉を交わすわけでもないのに、言葉を交わすことのない存在によって、どうかして癒されるのも不思議なことだ。

哲学と進歩について語るすべての人が忘れていることは、Emanuel Kantによる認識論のコペルニクス的転回をわたしたちはまだ乗り越えていないということだ。
一体全体いつまで、人々は「その赤いリンゴ」というのだろう。リンゴは赤く見えているだけなのに。
でも、この疑問はわたしたち人間に宿る定めなのだ。
つい最近、お散歩ソングを新たに見つけてよく聴いている。いまの時間感覚に馴染んで、いまの街の空気に似合って気が抜けて心地よい。
世の中の限りない音楽のなかで、お散歩するのにちょうどいい曲というのがあって、それはもしかしたらその人の歩く速さに依存するのかもしれないと思う。アンダンテ 「歩くような速さで」のテンポは、もちろん人によってちがうのだけれど、場所や状況、気分によっても変わる。なんだかうれしいとき、さびしいとき、むなしいとき、たのしいとき、それから渋谷を歩くとき、上野を歩くときだって、あ、これだなぁっていう曲がある。公園、帰り道、通勤路、太平洋の海辺を歩くとき、日本海の海岸を歩くとき、山や川沿いだったり、冬だったり夏だったり、ね。
まるで、レコードをゼンマイ代わりにまわして動く人形みたい。
そのときのお散歩ソングが時間とともによく耳に心に馴染んで、いつしかいろんなこと、いろんな人間を思い出させもする。
その木漏れ日のような束の間が、さまざまなものが紛れは埋もれて混雑した街の最中では、一等に尊い。
地下鉄の改札を通ろうとすると、向かいから改札を出る人々がやってくる。向かい側から歩いてくる人が、ふとある人に見えたと同時にその人のことが思い出され、そしてあの人ではぜったいにないんだと確信する。
ある人とは、上京してはじめて知り合った、女性だか男性だかわからない年上の人で、なにをしているのかわからない、いつまでも得体の知れなかったが、それでもわたしのコトバをよくよく褒めてくれたし、となりで胡座をかいていたアメリカ人のきれいな女性に恋している風だった。わたしはその人のご縁で素敵な女優さんに自分で綴った文を朗読してもらったり、音楽もつけてもらって、人生有り難い、今でも忘れられないひとときで、今でも忘れられない、忘れたくない人だった。
忘れられないから、こうして背格好の似ている人を見つけて、あっ、と思ったりするのだろうか。そして、元気にしていますか、って。コトバを綴りましたよ、絵を描きましたよ、って。言いたくて、どうしようもなくなる。
まだ見てくれていますか、いまなにをしていますか、って。
話したくて、地下鉄の天井を見てしまう。