2025/12/31

1806.

年末の生活の隙間に来年を兆すような、新しい風が吹く大晦の日。

2025年、おつかれさまでした。


一昨夜はさむくてたまらなかったが、昨日、今日は昼頃、ぽかぽかとあたたかい天気に変わっていた。


振り返ると、ときどきSNSに近況を挙げてはいたけれど、秋ごろに少しずつ絵の投稿を始めたり、画材も絵柄も随分と大胆に変えたり、変えなかったりした。

デッサンやスケッチも好んでやるけれど、うまくなるとかそういうのではなく、絵を描くという世界の水平線を拡げていく、そういう時期なのかなと。


しばらく、「ことばを探す」ことはしなかったけれど、でもきっと、眼裏のいっそう奥深くで渦巻いているものから、ことばでない何かを探すようなことは絵を描きながら続いていたのではないだろうか。



読書はままならなかった。強いて読み進めたものもあるけれど、なかなか思うようには読めなかった。新しい発見はもちろんあった。たまたま知ったり、調べたり、教えてもらったりして。映画も、音楽も。好きなもの以外では、インパクトのあるものを発見することはなかった。


そんななかで、今年一番聴いたのは青葉市子と折坂悠太が二人でライブを開いたときの「漁火」と「ゆれる」だったらしい。ずっと好きな曲ではあるけれど、仕事と生活と、今年は心を遠くに遣れない、遣りたい一年だったのかもしれない。


人との新しい出会いもあった。

職場の出会い、作家さんとの出会い、久しい出会い、新しいつながり、埋もれてあったつながり、問い合わせにその何倍もの量と質で応えてくれる写真集史家で写真集の店主や、すてきな草木染めで年にいちどだけおもしろいプロジェクトをひっそりやっているモデルさんもいたなぁと、ギャラリーもよくめぐったり、知り合うという意味ではいろいろなご縁があったように思う。



やりたいことはたくさんあるけれど、

いまは絵を描くのが楽しい。

今年は絵を描く世界に少しずつ引き寄せられ、結局はその絵を描く世界を軸に巡った一年だったのかもしれない。

思っていたものとはずいぶんちがった一年だったんじゃないかなと思う。


これからも、そうであればいいな。


2025/12/25

1805.


デッサン#4は石膏デッサン、アグリッパの胸像。

もう少しおじいちゃんで、眉上がかなり膨らんでいる印象。石膏デッサンならではの面の意識やトーンの階調はまだ弱いかもしれない。

それでもはじめての石膏デッサン、はじめての木炭にしては、我ながらかたちは崩れなかったなと思ったし、楽しく描けた。

はじめの描きだしはもちろん怖かったけれど、描き進めるとはやいし、描き進めれば描き進めるほど、楽しいと思える。

絵を描いて、しかもお堅い感じの石膏デッサンを楽しむことができるのはまさに今だからこそなのかなと思う。

いや、石膏デッサンだからとかでなく、目の前の制約から抜け出たところで今は、やっぱり絵を描くのは純粋に楽しいと思える。

2025/12/02

1804.


デッサン#3 はおよそ6時間。

あたりをつけるのが速くなったと思う。思い切りがよくなった。

デッサンは楽しいと思える。

それが生き物であるからなおさらだ。


反省するところはもちろんある。羽の模様だったり、色味だったり。

脚の色を表現するためにはそれが乗っかっているところの木の枝を濃くする必要があった。また、輪郭を与えすぎるのを恐れて、陰影が弱いままだった。

それらは今回の描画中に修正したが、次回やるときにはそれらも頭の片隅にはなから置いておく必要がある。


次は木炭の石膏デッサンに挑戦。

やっと、ですか。やっと、です。

石膏も木炭も初めてだから、不安とほんの少しの楽しみが入り混じっている。


2025/11/17

1803.

​マニエリスムの知的な技巧は人間の細部への感情を繊細に揺らす。彼らの特徴はいまの才ある人々の趣味的技巧に通底していて、かつて聞いた「プログレッシヴロックはクラシックに飽きた人たちの戯れ」というラベルと似ている。いまのポップス界隈でも、そういう人たちが活躍するのを見るし、現代芸術は遥か昔のマニエリスムからのリバーブに他ならない。


調和や安定への挑戦、自然の美から人工的で、意図的な複雑さ、不安定さへの転向は芸術という人類という種の活動に普遍的に備わった社会的性向なのだと思える。


しかし、マニエリスムにおける知性は単なる「調和と混沌」みたいな二項対立軸で芸術をとらえる初歩的なものではない。

彼らはその関係をより高次の観点から再編成する。

その結果として、みるものはこれまでの枠では捉えられなかったまったく新しい、しかし馴染みの感情や思考へ導かれるのだ。


例えばポントルモの「エジプトのヨゼフ」は人物と色の配置や時間軸の曖昧さにより、みるものに混雑、不安定といった新しい情動を与える。ここでは作品は、みるものに「美しい」とか「調和している」と判断させるのでない。


マニエリスムにとっての芸術は、より高次であり、そのため限りなく多様な感情、情動を表現する。


2025/11/15

1802.

 ここしばらくのあいだに、ものごとの変遷に価値を感じるようになった。歴史や史学といってもいいかもしれない。「映画」が誕生し、誕生してからこれまでの変遷、「絵画」が誕生し、誕生してからこれまでの変遷、「知覚」という概念が議論され、議論されてからこれまでの変遷。水平の視線から、こんどは垂直の視線へ、深く深い根の底へ。

2025/07/31

1801.

芸術においてコンセプトをいかにして見出すか。流行や周囲のニーズに合わせようとするならば、それは変化の波に飲み込まれるだけではないか。


しかし、私にとって「最も重要なのは根底にある、本質的な核心部分にアクセスすることである」。そのため、私の芸術におけるテーマは常に「meta-」、すなわちメタアート、メタミュージック、メタリテラリー(メタ文芸)へと向かう。美学そのものを問い、表現という行為そのものを主題とすること。それこそが、普遍的な創造の源泉だと信じている。


そして、創造には逆説的ながら「制約」が不可欠だ。


人間の想像力は、野放しにされれば無益な概念を生み出すわけで、そのため想像力には理念に基づく制約が必要なのだ。古代美術が達成した偉業を思い出すなら、彼らは「現実の人間の実際のプロポーションを思い描くのではなく、人間の最高のプロポーションを思い描くこと」で、単なる現実の模倣を超えた普遍的な美を創造しようとしたといえる。

つまり、理念のもとでの制約の中でこそ、想像力は真の自由を獲得し、高みへと飛翔しうる。