2019/03/30

1721.

批評は絵画の額縁のようなものだと思う。
それは作品に付与される価値であって、上手い批評がSNSで流れるときのことを考えるといい。それが与える作品評価への影響力はきっと大きい。批評のなかでも批難が多くを占めるような場合に、それを知った人が作品を積極的に評価するよりは消極的に評価するということはありそうなことである。

作品がそれとして出来上がっている以上はきっと、そのなかに良いところを見つけることができると私は思っている。だからこそ、人によって好き、嫌いがあるといえるのであって、もしそうでなければ、誰かが悪いと評価した作品をそれにも関わらず好きだという人を見つけることはできないだろう。だけど、実際は評価の悪い作品に関して、その作品を好きだという人は少なからずいるもので、そして彼らは天邪鬼として評価が悪いという理由で逆に好きになるわけでもなさそうなのである。もしかすれば、作品に対するあまりの非難の多さに可哀想という同情心によって、何か応援のような心持ちである作品を好きになるということはあるかもしれないが、そうでなければ、ある作品を好きなある人はなぜその作品が好きなのかという理由を論理的にうまく書き出せるのではないだろうか。

作品はそれだけで「良い」ものだ、というべきかもしれない。とはいえ、その根拠は「頑張ってつくったから」などという過程に求める必要はなくて、作品そのものに、例えば作品の整合性に求めることはできる。もし整合性が欠けていれば、人はそれを作品とは見なさないだろう。

私が思うところは、作品を受けとる誰もがその作品の良いところを見つけるよう努力すべきだということではない。このことははっきりと言っておく必要があって、すべての人々が意識的に努力するというのはどんなことに対しても不可能に思えるから、そのようなことを啓蒙的指導者さながらに要求することはできないのである。

私が思うところでは、美学は「人それぞれ」ということによっては解決しない。多くの人が「あの作品はよかった」「何話のどこそこがよくなかった」といいながら、結局は「まあ人それぞれだよね」と落ち着くのは不思議でさえある。なにかと不満をぶちまけておきながら、いやその不満は「何によって満足するのか」を表してはおりません、というようなもので、「どうすればよかったの?」と尋ねられたならば「満足させてくれたらよかった」と答えるようなものだ。

ただし、多くの人々はそのような美学、「良い作品とは」を追求するような認識を持とうと思っていないだろうし、持つ必要すらないかもしれないというのが実際のところであるだろう。むしろ、多くは目の前の作品を「私を満足させてくれるもの」という程度にしか認識していないように思う。だからこそ、満足させてくれなかったものについては不満に執着するばかりで、ある場合には「手のひら返し」という芸を披露することになるのだ。たしかに作品が受けとる人の心を満足させるということは大切であるが、それこそ「人それぞれ」に終着するもので、作品の評価にとってはどうでもいいことだというのを自ら示しているのである。

他方で、駄作と呼ばれるものに高評価を見いだしたがる人がいて、彼がある駄作と呼ばれる作品をなんらかの理由で駄作ではないなどというときに、駄作と呼ばれる理由を考えることがないならば、それもまた酷く目立った額縁のように思える。その先でいかなる決着があるかといえば、それは「人それぞれ」ということになる。

私が人それぞれという言葉に聞き飽きて、さらにウンザリしているのは確かだが、その根底には作品はそれだけで「良い」ものだという認識がある。私は美学に関心を抱いているのであって、個人に関心を抱いているわけではない。


2019/03/22

1720.

具体的に覚えたり思い出すことに困難がある。例えば固有名詞、作品の名前や人名。それはもしかすれば、覚えられていないということだけであるかもしれないから、いっそうの困難に見える。というのは、困難ということがどういうことを意味するのか分からないからだ。
私は記憶力が問題であるとは思えない。受験時、英単語は誰よりも知っていたから、少なくともふつうの記憶力は持っている。また、ゼロから思い出すことはむずかしいにしても、何かしらのやり方で思い出すことは可能だ。つまり、私は忘却しているわけではないかもしれない。
記憶の仕方に問題があるのか、あるいは思い出すときのその仕方に問題があるのか。もしかすれば、そうであるかもしれない。
それとも、私は空間把握について思いを巡らす必要があるだろうか。というのも、ある芸術作品について、その名を覚えていることは困難でも、その作品の所蔵館を覚えていることは私にとって容易いからだ。
名前は覚えていることがむずかしいのかもしれない。そもそも私たちは、名前によって二つのものが異なることを知っているよりもはるかに、二つのものが異なることをニュアンスによって知っているような気がする。しかし、ニュアンスによってものの異なることを知るならば、私たちはひどく個別的な区別をせざるを得ないのではないか。人がそれぞれの区別をもつならば、人々はコミュニケーションをとることがいかにして可能なのか。
このような考えは、ニュアンスがもつとされる偶有性に由来する。ニュアンスとは、人それぞれにとって異なる内容を意味し、かつそれを他人と共有することはできないものであるという。
しかし、私たちが共有するのはニュアンスではなくて、区別のほうだ。それゆえにこそ、私たちは区別をあらわす名前を覚えようとする。そして、ある場合にはニュアンスによってものの異なることを知らなくとも、名前を覚えるということがあるかもしれず、その場合にはなかなか覚えていられないだろう。
問題は、ニュアンスはたしかに多種多様でありうるが、それはどれだけ多様でありうるのか、ということである。私は多種多様の基には普遍的なものを想定するのであるが、ニュアンスもまた、私たちが思っているほどに多様ではないということはありそうだ。

2019/03/12

1719.

当事者でいるよりも傍観者でいることを好む人間が存在する。そのような存在者が当事者としてふるまうことはありえても、彼らはやはり傍観することを、その俯瞰しうる視点を保とうとする。映画を観ている自分と周囲の存在を鑑賞中に意識したことはあるだろうか。「タイタニック」が上映されているときの、シアター5の天井はどのような色をしているだろうか。壁に伝わるサウンドの物理を感じるだろうか。休日の街のど真ん中で、暗い部屋のどこかに散らばった人たちの、そのうちの一人である自分を意識したことはあるだろうか。その存在者はきっと、良心や道徳観を動機に困っている人を助けるかもしれないが、やはり彼らは人助けをする人間としての自分をおよそ同時に意識せざるを得ないのである。

(私は特定の人間について述べているわけではない。憎しみを嫌う人間が決して憎しみを持たないなどということはないのと同じで、人はだれでも傍観者という存在者たりうるのである。)