2024/12/10

1800.

「そもそも、他人とは」と考えることがある。哲学的に言うなら、他人は「私という視点を通してしか見えない存在」でもある。同じ人間でありながら、私の目にはまるで異なる性質をまとった存在として立ち現れる。この二重性が、人間関係をややこしくしているのだと思う。

特にインターネットの世界では、この傾向がより強くなる。顔も素性も知らない相手とやり取りする場では、相手の客観的な特徴をつかむのが難しい。だから他人は、主観的で、時に得体の知れない存在として現れやすい。価値観の違う誰かを、簡単に「分かり合えない人」として切り捨ててしまうのも、そんな背景があるのだと思う。対話の可能性は閉ざされ、ただの無理解だけが残る。

一方で、私自身も矛盾を抱えている。「人と関わると疲れるくせに、結局また人を求めてしまうのは、孤独が怖いからでは?」と自問する。SNSを開き、誰かとの繋がりを探してしまう。本当は一人でいる静けさも嫌いじゃないのに、心の奥で孤独を恐れているからなのか。

気疲れと孤独への恐れ。その間を行ったり来たりするアンビバレントな感情こそ、人間関係の核心なのかもしれない。


2024/08/04

1799.


内なる探求は、他者の存在によって、より複雑でゆたかな次元へと導かれる。「他者を通して自己を認識すべきである」という命題は、単なる処世術ではない。

人間関係の中で生じる誤解、期待、失望といった摩擦こそが、安穏とした自己認識を揺さぶり、より深い内省を促す契機となる。他者は、自分自身を映し出す不可欠な鏡なのだ。

その他者という鏡に映る歪んだ自画像と向き合うことなしに、真の自己理解はあり得ない。

2024/02/25

1798.

 なぜ私は考え、書き続けるか。それは、世界との関わり方を模索する、わたしなりの営みなのか。

かつて哲学は、人間の思索の世界と現実の日常的な世界の乖離を確実なものとしてしまった、と非難された。観念の世界で遊ぶことばは、日々の生活の手触りから遠く離れ、一部の専門家だけが理解できる暗号のようになったという。

なぜ、わけの分からないことを考え、無益な概念を生み出し、自らもそのことを認め、それが哲学だから仕方がないなどというのか。

私は信じている。「哲学は常に理解できなければならない」と。それは、哲学が日常の中からこそ見出されるべきものであり、私たちの生と分かちがたく結びついているから。

だからといって日常の中にとどまる必要はないのではないか、とも思う。