2020/03/29

1742.

 電灯もなく、町の明かりから離れた真っ暗闇の、いつどこで獣におそわれるかしれない藪道をおどおどしながら歩いて、だれもいない夜の海辺に立つ。そこはだれもが、わたしだけが知っているひみつの海辺だと思っている場所。

ときどき、だれもいないと思い込んでいたわたしの胸に、向こう南から異国の楽器の奏でる音楽がきこえてくる。口琴やハンドパン、ジャンベの音色がともに音楽を深くたたえた潮にのって、風にのって、やってくる。現世を生きることに不器用な、それでいて生きがいをこころに宿したひとたちがタトゥーを入れた躰で夜な夜な踊っているんだ。

低い堤防のうえに仰向けに寝転がって夜空をながめると、次第に寝静まってゆくような波の音が耳もとをとおりすぎたり、風がわたしの躰を足もとから包んでいったり。ねぇ、星がたくさん。ここにいたいね、ずっと。そうしてこころをいつまでもとかしながら、夜天の先の宇宙というものを身のまわりに感じたり、キャンバスに見立てた空の、無数の星々を自由に線でむすんだりする。

すべてが暗夜のなかへ沈み、わたしとひみつを交わして消えていってしまう星たちと同じように、このまま海といっしょに眠ってしまってもいいと思う。それとも、遠くの星たちがたがいに呼び覚ましあって、もっともっと夜空を光でいっぱいにしないだろうかとも。

流れ星がひとつ、寝息するようなひかりの呼吸のなかで消えてゆく。ふたつ、夢のような速さで、あっという間に。



2020/03/12

1741.

坂道をくだる自転車は車輪を回転させながら大池のよこたわる公園へ向かって午後三時を颯爽と走り抜けてゆく。公園では、中学生たちがサッカーボールを天高く蹴り上げる。三月、春日和。

ヘレヴェッヘ奏でる、ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」を聴く。胡蝶蘭やガジュマルの鉢が造作なく置かれた部屋の、外の光を身体いっぱい受けられるほど大きい窓をひらくと、さながら鳩のいっせいに飛び立つように、今日という一日が高く羽ばたいてひろがる。


春とは、横溢する精気に駆られてからだの細胞という細胞がおどりだすとき。

わたしはそのとき、力いっぱいつかんだ土を口から喉の奥底へできるかぎり放りこんで、胃や腸に樹や花を咲かせたいと思う。そのために、雪の重みに耐えてきた草木たちがほしがる春の光を、たくさん頂かなくてはいけなくて、口をもっと大きく、大きくひらいていないとだめだといわれる。

身体中のあらゆるものが陽の光を欲し、閉じた身体をひらき骨をかぞえてならべ、内臓をとりだし天日にさらそうとする、そういう心底から発せられる精気で春はあふれる。

菜の花畑をみわたすことのできる陽だまりの丘へ子どもが走ってゆき、それをしあわせとよぶこともなく、ただただ無邪気に目を糸のように細くして笑いながら寝ころぶときの、解放感。閉ざされたこころも春のなかできっと、ずいぶん大きくひらくときがある。

そして、いまこそことばにならないなにかもきっと、いつか芽生えてあらわれる、ことばの「意味」が時間をかけて本質をもつという、それが真実だとしたら、ひょっとすればかわいらしい花を咲かせもするだろう、知識とは知恵とははるかにいいがたい幼稚な覚知がそれでもなお、みなぎる循環のなかにあって、おのずから複雑な知の樹形図をいずれの日にか、描くかもしれない。そうねがって、本を閉じる。

窓をひらくと、今日という一日がはじまり、どこからきたのだろう、ゆったりとした時間が風のようにながれてくる。自省のなかにも、未来のなかにも。そして、そのさきにも。