2019/04/28

1725.

高校のときに知り合った地元の友人で、その子は地元の大学に進学して自分は急き立って上京したので会うことも少なくなり、とうとう連絡先がなにひとつ残っていない人がいる。いまどうしているだろうと、平成のまもなく終わろうとしている頃にその子について思います。あるいは、同じように連絡先がなにひとつ残っていない人について思います。

そうするのも最近の出来事があってのことで、以前同じ講義を受けた子にとある研究会で再会できたのがどうも気に入ってしまいました。
きっといまでは身近な子の方でもいつかはなればなれになるうちに記憶がおぼろげとなって、私の方では地元の子に対するのと同じように回想する日が訪れるのでしょう。
だからといって、私以外の他の人間が忘れっぽいということはなく、おそらくはどこかで誰かが私のことをほんのちょっぴり思い出しているだろうと期待しているのです。そういう根拠は少なくともあって、それは私が連絡もせず、もはや連絡先すら残っていない人たちのことを名前と一緒にときどき思い出しているからです。

こう見えて、私は他人に対する過剰な関心を持っています。たとえば、私は街中の笑い声を非常に不愉快に感じます。それは自分のことを笑っているのではないかという反応を自然に起こしてしまうからです。このようすだから、たしかに私的な経験を根拠にすることは不安定なことですが、類推すれば、他人のことをふと思い出すようなことはそれほど特殊なことではないと思うのです。

しかし、邂逅のすぐとなりに別離を並べてしまうのは明らかに私の悪い癖で、この愚かな考えは中学校で祇園精舎の鐘の音を聞いたときからなにも変わっていないのです。

私はもしかして自分が他人の目を必要としていると、たとえ独立志向でもそうであると、考慮してみるべきなのかもしれない。