2019/05/06

1726.2

 「人の話を聞く」ことはさまざまな場面において大切なことだと言われるが、わたしはそれがどういうことなのか分からなくなるときがある。二度や三度も同じような失敗をするのはわたしが「人の話を聞かない」からなのだろうか。前もって失敗を防ぐことができるような「人の話を聞く」仕方があるのだろうか。

人の話を聞くことのむずかしさを感じることがある。そのむずかしさは各人によって違って想像されるかもしれない。ある人は、彼は無学だから彼の話は疑わしいという風な自身の先入観によるむずかしさを想像し、またある人は、怒りの感情のせいで聞く耳を持つことができないように自分の感情によるむずかしさを想像するかもしれない。

実際のところ、人の話を聞くことはある意味で簡単だ。人の発する言葉は自然と耳に入るからだ。が、それを味見して咀嚼するのはむずかしい、ということかもしれない。

もしわたしがだれかの教え子だったら、師の教えを無心で受けとるくせにきっとなにも理解できそうにない。間違いを犯すことも、同じ間違いを繰り返すこともないと言える自信を、師の教えを聞くことによって持つことはないかもしれない。もし教えにただ従って日課をこなしていたら、空腹を満たすために水を飲むように、わたしはどこか虚しくなってしまう気がする。

そうではなくて、人の話を追体験するようであるならば、尊敬する師がわたしにそれを伝えたいと思ったように、わたしもだれかにそれを伝えたいと思うかもしれない。

実際、わたしの心のなかにあるだれかの言葉はどれもわたしの体験のなかにあって、体験と一緒になって現れる。芽が泥をかぶって日のもとに出てくるように、他者の言葉はいつもわたしの体験と一緒だ。

人の話を聞くことはときに時間のかかることなのかもしれない。本当にそうだとして、もしわたしがおこがましくもだれかになにかを説くならば、彼がその話の内容を自ら考えたり自ら体験するそのときまでじっと見守るほどの気概を持つのが良さそうだ。逆に、わたしがなにかを説かれたときには、やはり同じように急いで肯定したり否定したりしないように努めるのが良いかもしれない。少なくとも、なにかある話を聞いて、それに対して即座に判断しなければならないとか、それだけでその意味が理解されるということもありうるけれど、決してそれだけではないと思いもする。

「人の話を聞く」「人の言葉に耳をかたむける」といわれるとき、わたしはそれがどういうことなのかわからなくなるときがあるが、それはわたしだけなのだろうか。

「いいか、よく聞けよ」といわれて、人は耳に力を入れて聞くのだろうか。