年末年始は久しぶりに実家で過ごした。何も考えないで、ゆっくり過ごそうと思った。毎週録画していた「西郷どん」を寺田屋騒動辺りから最終回まで一挙に見ると、もう大晦日の二十三時になろうとしていた。カウントダウンはジルベスターコンサート。
あっという間だ。お正月もどこへ出かけることなく家に居た。たくさんの番組を見た。どれもこれも、おもしろかった。そして、自分の為体に驚いた。これは長く続かないと思ったが、どこか懐かしくさえある。テレビゲームに再びはまり込んだような熱さを身体中に感じ、冷たく締まった白い皮膚が赤くとろけていく。段々を登った軌跡などもなかった。気まぐれを装ったあの着ぐるみをまた被らなければいけないのかと瞑目し、私は真昼の午睡に耽った。
幸せとは何か。テレビの中でそう問われていた。
私は自分が死を心底で嫌がっているのだと感じている。欲求が死に対する感情に由来しているように思えるのだ。例えば、食への欲求は飢死に対する感情に依るかもしれない。何かを食べなければ、飢えてしまう。飢えは苦しみであり、いつそれがやってくるか分からない。そういって、腹を空かせることに怖れを抱いている。私は去年の師走にそれを強く認識した。ふだん買わないようなお菓子なども買って、無意識のうちに腹を空かせないようにしていた。酷く執着していたので、私は度々情けなく思った。が、年末年始に実家でたらふく食べさせてもらうと私の執着はすっかり消えてしまっていた。ああ、と私は思った、たとえ落伍者となってもご飯と寝床を与えてくれる人がいたならば、きっとそれは幸せにちがいない。彼はそれほどに善き人だったのだとも思える。いかなるときでも面倒を見てくれる人を知っているというのは幸せなことだ。なぜならその人のおかけで、どんなに危険が迫ろうとも、どんな危険に挑戦しようとも、生きられるからだ。幸せとは生きられることだ。私はそう思う。生きられることを支えるもの、生きられることのその可能性の根拠、それが心強く存在するとき、私は幸せだ。もしかすれば他の幸せがあり得るかもしれないが、生きられることには全然、およばないだろう。